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和紙の教へ
わしのおしえ |
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作品ID | 52190 |
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著者 | 柳 宗悦 Ⓦ |
文字遣い | 新字旧仮名 |
底本 |
「日本の名随筆68 紙」 作品社 1988(昭和63)年6月25日 |
入力者 | 門田裕志 |
校正者 | noriko saito |
公開 / 更新 | 2012-01-06 / 2014-09-16 |
長さの目安 | 約 6 ページ(500字/頁で計算) |
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一
「紙漉重宝記」の絵語りの終りに、忘れ難い一図が差し入れてある。一枚の紙が風にひら/\と遙かに飛んで行くのを、人が追ひかけて拾はうとする図である。貴い紙を一枚でもおろそかにしてはすまないと云ふ意を込めたのである。絵にとり立てゝ美しさはないが、この一図を忘れずに加へたその心には美しさが濃い。物体ないと云ふ気持が溢れてゐるからである。どの本であつたか、紙に就いて神明を畏るべしと云ふ意味の句が添へてあつた。清浄な紙の性質に就いて、貴い訓しである。
石州の黄ばんだ半紙を胸に描くとしよう。甞てはありふれた質素な品であつたが、私がわけても好むものゝ一種である。工房を訪ねると、時としてはいとも貧しい箱舟や簀で、農事の片手間に、もの静かに漉いてゐる。薄暗い室や簡素な道具類や、うたゝ遠い昔の姿そのまゝを想はしめる。細々とした手仕事に過ぎなくはあるが、出来上つた紙を見ると、誠にりんとした所があつて、張りが強く、思はず指で撥いて、音を楽むのを禁ずることが出来ない。それのみではなく、やゝ厚みのものになると、肌の美しさが一入際立つてくる。静かな起伏や、ゆるやかな渦紋さへその上に漂ふではないか。思はず又手を触れる快よさを抑へることが出来ない。色をと見れば、誰だとてその天与の黄ばんだ調に、見とれない者はないであらう。楮の甘皮が人に代つて染めてくれたのである。私達は識らず識らずに、耳に手に眼にこの和紙を讃えてゐるのである。
優れた紙になると、それ自身で既に美しさに溢れる。どこか犯し難い気品が見える。愚かに用ゐてはすまない。たとへ使ひ古した半紙や巻紙の一切でも、何か棄てるに忍びないではないか。紙縒にでもすれば又甦つて来るからである。昔の人はそれで布を織つた。細かい乱れ絣が入つた着物などを見ると、手習の跡かと思はれ、一入情愛をそゝる。
支那に「鶏肋」と云ふ言葉がある。後漢書の楊修伝に出たと云ふ。意味は鶏の肋骨は棄てゝもいいやうなものゝ、さて棄てるには惜しいと云ふのである。だが私だつたら「片楮」とでも云ひ直したいところである。一片の楮紙でも無駄にするには忍びない。何かそこに紙恩と呼んでいゝものを感じないわけにゆかぬ。
なぜ和紙がそんなにも貴いのか。数々の理由を挙げ得るであらうが、何としても紙として無類の美しさがあるからである。さうしてその美しさが、材質の正しさから来てゐるからである。誠に柔剛の二面を兼ね備へた紙として、是ほどのものは天下にない。それが純和紙である限り、美しくないものは一枚だにない。上鳥の子、檀紙から、仙貨、杉原、下天具帖の薄きに至るまで、何れも和紙の栄誉を語らないものとてはない。
古語に「にぎて」と云ふ言葉がある。神に献る幣帛の義である。「にぎ」は「和」であり、「て」は「栲」即ち梶で、「和かな梶布」のことである。布帛であるが、こゝに梶紙の濫膓があつたと思へる。弊帛即…