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思ひ出すままに
おもいだすままに |
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作品ID | 52192 |
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副題 | 「文藝春秋」と菊池と 「ぶんげいしゅんじゅう」ときくちと |
著者 | 宇野 浩二 Ⓦ |
文字遣い | 新字旧仮名 |
底本 |
「日本の名随筆 別巻96 大正」 作品社 1999(平成11)年2月25日 |
入力者 | 門田裕志 |
校正者 | noriko saito |
公開 / 更新 | 2012-01-01 / 2014-09-16 |
長さの目安 | 約 12 ページ(500字/頁で計算) |
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私が「文藝春秋」の創刊号を見たのは、たしか、本屋の店頭であつた。しかし、今から思ふと、いくら呑気な大正時代でも、あんな粗末な体裁のわるい薄つ片な雑誌が、数多の名のある雑誌がならんでゐる店頭で、目につく筈がない。が、又、考へ方によつては、なるべく目に立つやうにとさまざまに工夫をこらした沢山の雑誌の表紙がならんでゐる店頭の隅に、もし、あの「文藝春秋」が、置かれてゐた、とすれば、却つてあの無造作な何の変哲もない表紙が人の目に附いたのかもしれない。(『無造作』といへば、菊池は、何をするにも無造作であつた。)
「文藝春秋」は、大正十二年の一月に、菊池 寛の主宰で、創刊号が出た。菊池は、その編輯を殆んど自分一人でし、その経営も自分でした。菊池は、その頃、歴とした中堅作家として認められ、又、新聞や婦人雑誌に連載する長篇小説なども書いてゐたが、いくら定価金拾銭の薄つ片なものでも、月刊の雑誌などを出す余裕は殆んどなかつた。それにもかかはらず、菊池が、「文藝春秋」を出したのは、ほかにも理由はいろいろあつたけれど、文学に対する一途な情熱を持ち、新人を出したいといふ考へを多分に持つてゐたからである。(それで、菊池が世に出したその頃の新人を二人だけ上げると、横光利一と川端康成である。)
大正十二年の一月の中頃であつたか、私は、その頃の或る日、那須温泉で保養をしてゐた江口 渙をたづね、そのついでに、そこに一週間ほど滞在した。その那須に滞在ちゆうに、私は、江口と連名で、菊池に、那須温泉の絵葉書で、便りを出した。その返事に、菊池から、「拝啓。ハガキ拝見。両兄にもぜひ『文藝春秋』に寄稿してくれないか。この手紙に返事をかくと思つて二枚から五枚程度のものを書いてくれないか。原稿料は拾円均一。たのむ。ヒマだらうからぜひ書いてくれないか。何でもいい。折り返し書いてくれないか、……」といふ手紙が来た。(この『書いてくれないか』といふ文句が三つ重ねてあつた。)
この手紙をよんで、江口と私は、返事のつもりで原稿を書いてくれ、とか「原稿料は拾円均一」とか、「ヒマだらうからぜひ書いてくれ」とか、『書いてくれないか』といふ文句を三つも重ねるところなど、「いかにも菊池らしいなあ、」「いや、これは、菊池流のものの考へ方だよ、」などと、語り合つたことであつた。
ところで、原稿料が、『拾円均一』とは、一枚拾円といふ意味ではなく、二枚でも、五枚でも、何枚でも、一篇が『拾円均一』といふ意味である。――これなどはまつたく菊池流ではないか。
さて、この時、私は、那須から諏訪の方へまはつたので、原稿は書けなかつたが、江口は、菊池の求めに応じて、すぐ原稿を書いて、菊池に送つた。これが、「文藝春秋」の二月号に出た、『斬捨御免』である。これは、(江口の文章によると、)「当時の文壇の、大家、中堅、新進、のおよそ二十名ちか…