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亜剌比亜人エルアフイ
あらびあじんエルアフイ
作品ID52219
著者犬養 健
文字遣い新字旧仮名
底本 「現代日本文學大系 62」 筑摩書房
1973(昭和48)年4月24日
初出「中央公論」1929(昭和4)年1月
入力者門田裕志
校正者仙酔ゑびす
公開 / 更新2011-01-01 / 2014-09-21
長さの目安約 35 ページ(500字/頁で計算)

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本文より



 マラソン競走の優勝者、仏蘭西領アルジェリイ生れのエルアフイは少しばかり跛足を引きながら地下室の浴場に入つた。
 一九二八年八月五日の夕暮であつた。そこはアムステルダム市外にあるオリンピック競技場に附属した浴場だ。八月とはいふものの、北欧のことであるから、アフリカの沙漠に育つた彼はすでに膚に秋を感じてゐた。午後の三時から二十六哩四分ノ一のマラソンコースを馳けとほした後で、空いろに赤い鶏を染め出した仏蘭西国代表選手のジャケットを脱ぐと、エルアフイはやはり幻覚を感じるほど疲れてゐた。大観衆の叫び声のなかで、彼の胸の赤い鶏に向つて前方から突進して来たやうに見えた真白な決勝点のテープ――これが今もなほ浴場の壁にはげしく上下に揺れて見えた。
 彼は不意に耳をそばだてた。
 夕暮の空にしみわたる吹奏楽を競技場の方角に聞いたやうに思つたのである。
「はてな、最後の走者が入つたのかな。」
 吹奏楽は一瞬間に消え、アムステルダム発巴里行の急行列車の汽笛が長く尾をひいて横切つて行つた。彼はふと旅愁を感じた。
 湯槽に仰向いたエルアフイの胸はまだ魚のやうに喘いでゐた。彼は人種学の教科書の教へるとほりに黒髪で、銅いろの額が広く、面長であつたが、その乱れた髪につけてゐる香油はパリ生粋のものだつた。巴里の下町の隣人たちが餞別にくれたコティの髪油である。彼は顔をしかめ、眼をつぶり、シャワーをねぢつて、降りそゝぐ温かい雨のなかで幻覚とも回想ともつかぬものに取りつかれてゐた。――運河のほとりの風車。白い雲。夏草。林。少女。犬。蝶。そして終始彼から十メートルとは離れずにせまつて来た智利人のプラザ。頬骨の出てゐる浮世絵の人物のやうな日本のヤマダ。麻いろの頭髪が青い運動着によく似合つた雄大な芬蘭のマルテリン。――勝者の到着を知らせる競技場の表門の古風な喇叭吹奏。歓声。そして最後に夕日の長い影のなかで彼を取り囲んだ新聞写真班。記録、二時間三十二分五十七秒。――と騒々しく通報してゐる声。そしてその直後、彼はいま浴槽のなかに寝てゐるやうに、フィールドの草のうへに夕焼雲にむかつて仰向けになり、写真の閃光を浴びてゐたのだ。……
 扉がそつと開いた。選手団のマッサージ師が来た、と彼は思つた。すると、忍び込むやうに入つて来たのは、新聞記者の腕章をつけた若い男であつた。細面の、無邪気な眼ざしの、パリ好みの身なりをした男である。若い新聞記者は少しはにかみながら、まるで美術館の彫刻にでも近づくやうにエルアフイの裸体に近づいて来た。
 エルアフイは狼狽し、タオルを腰に巻きつけながら怒鳴つた。
「誰だ。君は。どこの社だ。」
「ごめん下さい、ムッシュウ・エルアフイ。」記者は一層はにかんで顔を赤らめた。「僕は、その、ル・タン社の者です。」
「何社でもいかんよ。共同会見以外はお断りの約束だ。」とエルアフイは水滴のおちる手…

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