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朧夜
おぼろよ
作品ID52220
著者犬養 健
文字遣い新字旧仮名
底本 「現代日本文學大系 62 牧野信一 稻垣足穗 十一谷義三郎 犬養健 中河與一 今東光集」 筑摩書房
1973(昭和48)年4月24日
初出「改造」1923(大正12)年4月
入力者門田裕志
校正者noriko saito
公開 / 更新2021-07-28 / 2021-06-28
長さの目安約 35 ページ(500字/頁で計算)

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本文より

 春に近い夕方だ。官立寄宿学校のひと棟になつてゐる少年寮では、大勢の者が芝生の広い中庭に降りてあちこちに塊つてゐた。当時評判だつたハレー彗星がいよ/\現はれるのを観察しようと云ふのである。五十を越した篤学者で、強度の近眼鏡をかけた、痩せて半白の髯を生やした寮長は、懐中から厚ぼつたい銀側時計を出して時間を見計つてゐた。が、さういふ間も、生徒が不精してスリッパの儘庭に降りて来ようとすると、「こら/\。靴をはいて、靴をはいて」と一々丹念に注意してゐた。実際、黄ろく枯れた芝生には、霜解の土がジクリ/\とにじんでゐた。
 理科の講師で、綺麗に髪を分けた飯島といふ理学士は、庭の程よい処に望遠鏡を据ゑつけてゐた。太つて快濶な法学士の野田副寮長と、穏和で口数の少ない――何となく病後らしい文学士の森島和作とは、お附合でやはり庭に降りて来て、小さい生徒達のなかに混つてゐた。
 いかにも爽々した、一刻千金といふ言葉がふつと頭に浮ぶやうな夕暮である。遠くの賄部屋では、夕食の用意の皿の音を勢よく起ててゐる。建物の裏からは満開を過ぎた梅の蒸すやうな匂が漂つてゐた。それはしかし、あの四君子に喩へられてゐるやうな清楚なものではなく、何処か梅自身欝々と病んでゐるかのやうな、重たい香りだつた。
 ――丁度この夕方の五時頃からH彗星が肉眼で見える筈だつた。それは地球との数十年目の邂逅であつた。だから春に向ふ都会一帯の陽気な動揺のほかに、この彗星の噂が盛んに新聞に書きたてられて以来といふものは、何か人心に好奇心と、それから一種の気味悪さをいろ/\の臆測入りで与へてゐた。かういふ評判の彗星を、今この寄宿舎の中庭でも大勢たかつて観察しようと云ふのである。
 十分、十五分。――しかし肝心の彗星はなか/\現はれない。
 森島和作と野田とはすぐに飽きて、建物の窓の下に据ゑてあるベンチに腰を下しながら、互ひに不精な口のきゝ方で雑談を始めた。それは傍から見れば何だかつまらなさうではあるが、しかし実は長い友達の間にしか交はされることのない、親しい愛情のかよつた会話だつた。何故ならば二人は古い幼な友達なのだ。そしてこの官立寄宿学校は――この小学部から中学部、それから高等学部と前後十五年制になつてゐる特殊な組織の学校は――彼等のどちらにとつても母校だつたのである。
 野田は前々年に法学士になるとすぐ、この学校から話があつた。元々の楽天家だつたから、彼は普通の授業のほかに少年寮の副寮長などといふ、大抵の者ならば先づ厄介がる役目までも二つ返事で承諾してしまつた。そこで彼は昔の学生服のかはりにフロックコートを着け、昔よりは立木の少し延び、建物の少し色褪せた寄宿舎に、暫くぶりで快濶に帰つて来た。
 だが森島和作の方は少し異つた径路をとつて、此処で野田と落ち合つたのである。彼は平穏無事に此処の中学部を終へると、突然高等学校の試…

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