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浮雲
うきぐも
作品ID52236
著者林 芙美子
文字遣い新字旧仮名
底本 「筑摩現代文学大系 39 佐多稲子 林芙美子 集」 筑摩書房
1978(昭和53)年1月15日
初出「風雪」1949(昭和24)年11月~1950(昭和25)年8月<br>「文学界」1950(昭和25)年9月~1951(昭和26)年4月
入力者阿部哲也
校正者酒井和郎
公開 / 更新2016-06-28 / 2016-05-15
長さの目安約 465 ページ(500字/頁で計算)

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本文より

理性が万物の根拠でありそして万物が・理性あるならば
若し理性を棄て理性を憎むことが不幸の最大なものであるならば……。
――シェストフ――






 なるべく、夜更けに着く汽車を選びたいと、三日間の収容所を出ると、わざと、敦賀の町で、一日ぶらぶらしてゐた。六十人余りの女達とは収容所で別れて、税関の倉庫に近い、荒物屋兼お休み処といつた、家をみつけて、そこで独りになつて、ゆき子は、久しぶりに故国の畳に寝転ぶことが出来た。
 宿の人々は親切で、風呂をわかしてくれた。小人数で、風呂の水を替へる事もしないとみえて、濁つた湯だつたが、長い船旅を続けて来たゆき子には、人肌の浸みた、白濁した湯かげんも、気持ちがよく、風呂のなかの、薄暗い煤けた窓にあたる、しやぶしやぶしたみぞれまじりの雨も、ゆき子の孤独な心のなかに、無量な気持ちを誘つた。風も吹いた。汚れた硝子窓を開けて、鉛色の雨空を見上げてゐると、久しぶりに見る、故国の貧しい空なのだと、ゆき子は呼吸を殺して、その、窓の景色にみとれてゐる。小判型の風呂のふちに両手をかけると、左の腕に、みみずのやうに盛りあがつた、かなり大きい刀傷が、ゆき子をぞつとさせる。そのくせ、その刀傷に湯をかけながら、ゆき子はなつかしい思ひ出の数々を瞑想して、今日からは、どうにもならない、息のつまるやうな生活が続くのだと、観念しないではなかつた。退屈だつた。潮時を外づした後は、退屈なものなのだと、ゆき子は汚れた手拭ひで、ゆつくり躯を洗つた。煤けた狭い風呂場のなかで、躯を洗つてゐる事が、嘘のやうな気がした。肌を刺す、冷い風が、窓から吹きつけて来る。長い間、かうした冷い風の触感を知らなかつただけに、ゆき子は、季節の飛沫を感じた。湯から上つて部屋へ戻ると、赤茶けた畳に、寝床が敷いてあり、粗末な箱火鉢には炎をたてて、火が熾つてゐた。火鉢のそばには、盆が出てゐて、小さい丼いつぱいにらつきようが盛つてある。ぐらぐらと煮えこぼれてゐるニュームのやかんを取つて、茶を淹れる。ゆき子はらつきようを一つ頬張つた。障子の外の廊下を、二三人の女の声で、どやどやと隣りの部屋へ這入つて行く気配がした。ゆき子はきき耳をたてた。襖一重へだてた部屋では、一緒の船だつた、芸者の幾人かの声がしてゐる。
「でも、帰りさへすればいゝンだわ。日本へ着いた以上は、こつちの躯よ、ねえ……」
「本当に寒くて心細いわ。……あたい、冬のもの、何も持つてやしないもンね。これから、まづ身支度が大変だよ」
 口ほどにもなく、案外陽気なところがあつて、何がをかしいのか、くすくす笑つてばかりゐる。
 ゆき子は所在なく寝床へ横になつて、暫く呆んやりしてゐたが、気が滅入つて、くさくさして仕方がなかつた。それに、何時までたつても、隣室の騒々しさはやまなかつた。べとついた古い敷布に、ほてつた躯を投げ出してゐるのは、気持ちのい…

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