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参宮がえり
さんぐうがえり
作品ID52275
著者田中 貢太郎
文字遣い新字新仮名
底本 「日本怪談大全 第二巻 幽霊の館」 国書刊行会
1995(平成7)年8月2日
入力者川山隆
校正者門田裕志
公開 / 更新2012-07-10 / 2014-09-16
長さの目安約 16 ページ(500字/頁で計算)

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本文より

 明治五年比の晩春の夕方、伊良湖岬の手前の磯に寄せて来た漁船があった。それは参宮帰りの客を乗せたもので、五十前後に見える父親と、二十歳位になる忰の二人伴であった。
 舟は波のうねりのすくない岩陰に繋がれて陸へは橋板が渡された。その舟には顔の渋紙色をした六十に近い老人と三十位の巌丈な男が艪を漕ぎ、十八九に見える女が炊事をやっていた。老人は伯父で巌丈な男と女は兄弟であるらしい。女が艫の間の竈で焚く火の煙がうっすらと空にあがるのが見られた。
 胴の間に忰と坐っていた客は、この時小便を催したと見えて陸へあがって往った。忰は横に寝そべって何を考えるともなしにうとうとしていた。と、その忰の耳へ女の声が聞えて来た。
「……やめておくれよ、やめておくれよ、兄さん、お願いじゃからよ、兄さん、私は承知せんよ」
 兄の声がした。
「女子の知ったことか、だまれ」
「だまらんよ、私はそんなことは嫌いじゃ、そんな恐ろしいことは……」
「あほう、何をぬかす、だまれ、だまらんと豪い目に逢わすぞ」
「逢わされてもかまわん、私はそんなことは嫌いじゃよ」
 伯父の声がその後に聞えた。
「お民、もうええ、云うな、云わいでもええ」
「そんなら伯父さん、私の頼みを聞いてくれますか」
「ええ、判っちょる、云うな」
 兄の声が聞えた。
「あほう、そんなことを云うひまに、お客さんに茶でもあげえ」
 忰は何を云っているか判らない船頭一家の話を切れ切れに聞いていたが、そのうちに胴の間へ来る軽い跫音がするのでふりかえった。女が茶を持って来たところであった。
「お客さん、お茶をあげましょう」
 女はそう云って忰の前に行儀好く坐った。
「これはありがとう」
 忰は起きて坐りなおした。
「御膳も出来ました、すぐこれからあげます」
 陸へ往っていた父親が橋板を渡って帰って来た。それと同時に女は腰をあげたが、腰をあげながら忰の顔をじっと見た。忰はその白い顔を見返した。
「船頭さん、明日はどうじゃろう、やっぱり風が無いじゃろうか」
 父親の声に年老った船頭のしゃがれた声が答えた。
「明日は大丈夫じゃ、この雲は夜中比から晴れて、二番鶏時分から風になるよ、潮もなおるし、明日は日の高いうちに豊橋へ着く、今日のように、潮の悪いことはめったにない」
「そうかなあ、舟の上が長いとたまらない、明日は早く豊橋へ帰りたいもんじゃが」
「帰れるとも、飯でも喫て、ゆっくり休むが良え、朝、眼を覚した時分には、舟はもう走りよる、飯は途中で炊いて、ぬくぬくを喫わせる」
「そう云ってくれると、云うことはないが、しかし、海に巧者な船頭さんの云うことじゃ」
 父親はやっとこさと胴の間へ入って忰の前へ坐った。忰はびっくりしたようにして父親を見た。
「お民、お客さんが酒を飲むようなら、沸かしてあげろ、まだ俺と伯父さんと飲うだ残りが、一合や二合はあるじゃろう」
 …

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