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天才
てんさい
作品ID52293
原題ТАЛАНТ
著者チェーホフ アントン
翻訳者神西 清
文字遣い新字新仮名
底本 「チェーホフ全集 5」 中央公論社
1960(昭和35)年9月15日
入力者米田
校正者阿部哲也
公開 / 更新2011-03-13 / 2014-09-16
長さの目安約 9 ページ(500字/頁で計算)

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本文より

 避暑がてら、士官の後家さんの別荘に間借りをしている画家のエゴール・サヴィチは、いま自分の部屋の寝床に腰かけて、朝のメランコリイに耽っている最中である。庭はもうすっかり秋の眺めになっている。重苦しい、すこぶる拙く出来あがった層雲が、折角の大空を台なしにしている。肌を刺し貫くような冷たい風が吹き、樹木は情なさそうな泣き面をして一方へばかり身をねじ曲げている。大気のなかにも地の上にも、黄色い木の葉がくるくる舞いをするのが見える。さらば、夏よ! この大自然の憂悶は、もし画家の眼をもって観察するならば、また一種の美であり詩であるにはちがいなかろう。だが、今エゴール・サヴィチは美どころの騒ぎではない。彼はすっかりふさぎの虫にとりつかれて、せめてもの慰藉と言えば、明日はもはやこの別荘にいないのだということだけである。寝台の上も、椅子の上も、卓子の上も、床の上も、どこもかしこも褥だの、くちゃくちゃに丸めた毛布だの、バスケットだのの山である。部屋の中は散らかしたままで箒も入れてない。窓からは捺染更紗のカーテンを引っ剥してある。明日は都会へ引っ越しだ。
 主婦の後家さんは留守である。明日は引っ越しだから荷馬車を探しに出て行った。今年二十になる娘のカーチャは、口喧しいお母さんの留守を利用して、もうだいぶ長いこと青年の部屋に坐りこんでいる。画家は明日この家を出て行くのだが、彼女には言いたいことが山ほどある。彼女はいくらしゃべってもしゃべっても、言いたいことの十分の一しか言ってないような気がする。彼女は眼を涙でいっぱいにして、画家の尨毛の頭に見入っている。見ていると悲しくもあり嬉しくもある。エゴール・サヴィチは醜悪なほど、獣めいているほど、尨毛である。髪の毛は肩骨までも垂れているし、髯は首にも鼻の孔にも耳朶にも生い茂っているし、眼玉は繁りに繁って垂れ下った眉毛に隠れて見えない。実になんとも言いようのない繁りよう絡まりようである。蠅でも油虫でも一旦この密林に迷いこんだら最後、死ぬまで帰り途は見つかるまい。
 エゴール・サヴィチはカーチャの言うことに耳を澄しながら、欠伸をする。くたびれきっているのだ。やがてカーチャがめそめそ泣き出すと、彼は垂れ下った眉毛越しにぎろりと睨んで顔をしかめ、それから重々しい太い低音を出す。――
「僕は結婚なんか出来ないんだ。」
「どうしてなのよ?」とカーチャはおとなしく訊ねる。
「なぜって、画家は勿論のこと、一般に芸術に携わる人間は、決して結婚なんかしちゃいけないからさ。芸術家は自由でなければならん。」
「私があんたの邪魔をすると思うの? エゴール・サヴィチ。」
「僕は自分一個のことを言ってるんじゃないのさ。一般的に論じてるんだ。……有名な文士や画家は決して、結婚なんかしないものなんだ。」
「あんたが今に有名になるぐらいのこと、私だってちゃんと知ってるわ。で…

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