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マリ・デル
マリ・デル
作品ID52294
原題MARI D'ELLE
著者チェーホフ アントン
翻訳者神西 清
文字遣い新字新仮名
底本 「チェーホフ全集 4」 中央公論社
1960(昭和35)年10月15日
入力者米田
校正者阿部哲也
公開 / 更新2011-03-13 / 2014-09-16
長さの目安約 12 ページ(500字/頁で計算)

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本文より

 その晩は身体があいていた。オペラの歌姫のナターリヤ・アンドレーエヴナ・ブローニナ(嫁入り先の姓で言えばニキーチナだが)は、全身を安息にうち任せて寝室に横になっていた。彼女は快い夢見ごこちのうちに、どこか遠い町にお祖母さんや伯母さんと一緒に暮している自分の小さな娘のことを思い浮べる。……彼女にとっては見物や花束や新聞の短評や贔負の人々よりも、この子供の方がよっぽど大切だった。子供のことなら夜明けまで思いつづけていてもよかった。彼女の心は幸福と平和でいっぱいになっている。ただ一つの願いは、こうして誰にも邪魔されずに横たわって、まどろむともなく自分の小さな娘を夢みていることだけであった。
 ふと、歌姫はぎょっとして眼を大きく見開いた。玄関で急に粗々しいベルの音がしたのである。十秒もたたぬうちに第二のベルが鳴り、また第三のベルが鳴る。やがて扉がどたんと開け放たれて、誰かが馬のように足を踏みならし、大きな鼻息を立てながら、寒いのでふうふう言いながら玄関に上って来た。
「畜生め、外套掛ける場所もないじゃないか!」と歌姫の耳に嗄れたバスが響いて来る、「有名な歌姫の君、このざまを御覧じませ、だ。年五千も取るくせに、帽子掛け一つ買えないんだ!」
「うちの人だわ」と歌姫は眉を顰めた、「きっとまた誰か泊り客を引っぱって来たんだわ。……ああ、堪らない。」
 もう平和どころではなかった。誰かが立てるとても大きな鼻息と、ゴム靴を脱ぎ棄てる物音とがやっとのことで鎮まると、こんどは彼女の寝室の中を誰やら抜き足で歩いている。……それは彼女の良人、つまり女優の夫であるデニース・ペトローヴィチ・ニキーチンであった。一陣のひやりとする風とブランデーの臭が彼のお土産だ。彼はいつまでも寝室の中を歩き廻っている。苦しそうな息を吐き、暗闇の椅子に躓きながら、どうやら何か探しているらしかった。……
「何探してるのよ?」と彼の妻はその騒ぎが我慢しきれなくなってとうとうどなった、「あんたのお蔭で目が覚めちまったわ。」
「僕あマッチを探してるんだよ。君あ……君あ、じゃ未だ睡っちゃいなかったんだね。よおし、そいじゃ君に伝言があったぞ……宜しくって言いやがったっけが……ど忘れしたぞ……ほら、しょっちゅうお前に花束を届けて来る薬罐の先生さ……ザグヴォーズキンよ。……いま奴と一緒だったんだ。」
「あんな人の所へ何しに行ったの?」
「いや、別になんでもないさ……僕たちあこう仲よく坐って話しこんで、一杯やっただけさ。なあナタリイ、お前がなんと言おうと俺ああの男は大嫌いだぞ。断然嫌いだぞ。ありゃ稀にみる大馬鹿だ。奴あ金持の資本家だ。奴にあ六十万からあるんだ、――と言っただけじゃ、お前にあ分るまいな。奴の金と来た日にゃ犬ころに大根をやった程の役にも立たないんだ。つまり、自分でも食いやがらない癖に、他人にも遣らないんだ。金あ、こ…

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