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知らない人
しらないひと
作品ID52376
著者太宰 治
文字遣い旧字旧仮名
底本 「太宰治全集11」 筑摩書房
1999(平成11)年3月25日
初出「書物展望 第十巻第三号」1940(昭和15)年3月1日
入力者小林繁雄
校正者阿部哲也
公開 / 更新2011-12-12 / 2014-09-16
長さの目安約 8 ページ(500字/頁で計算)

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本文より

 ことしの正月は、さんざんでありました。五日すぎから、腰の右方に腫物ができて、粗末にしてゐたら次第にそれが成長し、十五日までは酒を呑んだりして不安の氣持をごまかしてゐましたが、たうとう十六日からは、寢たつきりになつてしまひました。惡寒疼痛、二、三日は、夜もろくに眠れませんでした。手術は、いやなので無二膏といふ膏藥を患部に貼り、それだけでも心細いので、いま流行してゐるらしい、れいの「二筒のズルフオンアミド基」を有する高價の藥品を内服してみました。葡萄状球菌、連鎖状球菌に因る諸疾患にも卓效を奏するといふことだつたので、私は、それを、はじめて二錠服用したときから、既に恢復の一歩を踏み出したやうな爽快を覺えました。私は、賣藥の效能書を、實に信用する愚かな性質を持つて居ります。その、「二箇のズルフオンアミド基」を有する高級化學療法劑に就いては、かねて新聞廣告に依つても承知してゐたのでありますし、いま自ら購ひ求めて、藥品に添附されて在る一枚の效能書をつくづく眺め、熟讀して、腰の腫物を忘却してしまふほど安心したのであります。效能書に依れば、これは、たいした藥なのであります。世界を驚かした大發明なのであります。私は、ここでその藥品の廣告をするつもりでは無いから、くはしくは書きませんが、實に種々雜多の難病に卓效を奏する藥なのであります。もう、これでなほつた。腫物が、なほるばかりでなく、肌がなめらかになり色が白くなるかも知れない、と家の者に冗談を言ひ、靜かに横臥し、藥のききめを待つてゐました。二錠づつ、一日三囘服用すると、たいていの腫物は、なほるといふ效能書の言葉だつたのですが、二日服用しても、三日服用しても、ちつとも輕快になりません。おなかが變に張つて、ごろごろ鳴ります。胃に惡い藥のやうです。三日服用したら、あと服用を禁止せよ、三日乃至五日間休止して、それからさらに二錠づつの服用を開始せよ、と效能書に書かれて在りましたので、私は、少しも、ききめの無いままに、その藥の服用を、やめなければならなくなりました。すでに私は、三日間、服用してしまつたのです。甚だ、味氣ない思ひでありました。腫物はいよいよ發展し、いまは膏藥では間に合はず、脱脂綿に無刺激の油藥を塗つて患部に貼りつけ、日に五、六囘も貼りかへなければなりませんでした。膿が、どんどん出るのです。その状は、流石に形容を遠慮しますけれど、とにかく酸鼻の極でありました。お銚子の底くらゐの大きい深い穴が腰にぽつかりできてしまつたのです。入院、といふことも考へましたが、それでも、やはり心の奧底で、かの高價な「二個のズルフオンアミド基」を有する世界的な新藥を、たのみにしてゐるところが在るらしく、そのうち卓效を奏するであらうと、身動きもならず靜かに横臥して、天に祈る氣持でありました。服用休止の三日間が過ぎて、さらに私は藥品の服用を開始しました…

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