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雀の卵
すずめのたまご
作品ID52390
著者北原 白秋
文字遣い新字旧仮名
底本 「白秋全集 7」 岩波書店
1985(昭和60)年3月5日
入力者岡村和彦
校正者光森裕樹
公開 / 更新2014-11-17 / 2014-10-13
長さの目安約 90 ページ(500字/頁で計算)

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本文より

大序





「雀の卵」が完成した。いよいよ完成した。と、思ふと思はず深い溜息がつかれた。ほつとしたのである。
 今、四校目の訂正をして、やつと済ましたところである。窓から見てゐると裏の小竹林には鮮緑色の日光が光りそよいでゐる。丘の松には蝉が鳴いて、あたりの草むらにも草蝉が鳴きしきつてゐる。南のバルコンに出て見ると、海がいい藍色をしてゐる。寺内の栗やかやの木や孟宗の涼しい風の上を燕が飛び翔つてゐる。雀も庭の枇杷の木の上で何かしてゐる。瀬の音もするやうだが、向ふの松風の下から浮々した笛や太鼓の囃子がきこえる。今日は盂蘭盆の十四日である。
 長い苦しみであつた。かう思ふとまた、目の中が火のやうに熱くなつた。
「雀の卵」此の一巻こそ私の命がけのものであつた。この仕事を仕上げるばかりに、私はあらゆる苦難と闘つて来た。貧窮の極、餓死を目前に控へて、幾度か堪へて、たうとう堪へとほしたのも、みんなこれらの歌の為めばかりであつた。だからたとへ拙くともこれらの一首一首にはみんな私の首が懸つてゐる。首の坐に直つて歌つたものばかりだ。
 そしてたうとう今日が来た。
 此のこれらの歌は大正三年からぽつぽつ作り出して、足かけ八年目の今月今日、大正十年七月十四日午後三時にたうとう最後の朱を入れて了つたのである。
 私の前に今冷たい紅茶が運ばれて来た。私はぐつとそれを一息に飲み干して了つた。
 蝉の声がする。涼しい海の風が吹きぬけてゆく。私は生きかへつた。



 大正三年の七月に私は小笠原父島から東京へ帰つた。さうして「輪廻三鈔」の中にあるやうな生活に入つた。それから「雀の卵」の生活が続いて来た。「葛飾閑吟集」の生活は五年の五月から初まつてゐる。六月の末に真間から小岩村の三谷に移つて、其処で新らしい紫煙草舎の閑寂三昧に入つた。哥路といふ小犬と、黒い子鴉と村の子供たちが私の朝夕の遊び相手であつた。私が外へ出る時には子鴉と小犬とがよく後を慕つて来た。子鴉は私が歩く時も私の頭や肩の上に留つて啼いてゐた。百姓どもは私を鴉の先生と呼んだ。内にゐる時には私が詩や歌を書いてゐる机の上に留まつてゐたり、悪戯したりした。私は時々歌の反古で、為ちらした鴉の白い糞を拭いて廻らねばならなかつた。秋の末に此の子鴉が本物の鴉になつて空へ飛んで行つて了ふと、冬が来て草舎は雀ばかりのお宿になつた。此の「雀の卵」の編纂にかかつたのは恰度その頃であつた。
 尤も、その時はこんなに大冊の三部歌集にならうとは思ひもかけてゐなかつた。小笠原から帰つて以来の、東京麻布での所謂「雀の卵」の生活に属する者が主で、それには「輪廻三鈔」中の大部分も含まれてゐた。が、葛飾のものはその後だんだん慾が出て附け足す事になつたのである。で、六年の一月から六月までは、「雀の卵」の中の歌の推敲や新作と、一緒に葛飾の歌を作る事に夢中にされた。冬枯…

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