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私本太平記
しほんたいへいき |
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作品ID | 52421 |
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副題 | 01 あしかが帖 01 あしかがじょう |
著者 | 吉川 英治 Ⓦ |
文字遣い | 新字新仮名 |
底本 |
「私本太平記(一)」 吉川英治歴史時代文庫、講談社 1990(平成2)年2月11日 |
入力者 | 門田裕志 |
校正者 | トレンドイースト |
公開 / 更新 | 2013-01-01 / 2014-09-16 |
長さの目安 | 約 253 ページ(500字/頁で計算) |
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下天地蔵
まだ除夜の鐘には、すこし間がある。
とまれ、ことしも大晦日まで無事に暮れた。だが、あしたからの来る年は。
洛中の耳も、大極殿のたたずまいも、やがての鐘を、偉大な予言者の声にでも触れるように、霜白々と、待ち冴えている。
洛内四十八ヵ所の篝屋の火も、つねより明々と辻を照らし、淡い夜靄をこめた巽の空には、羅生門の甍が、夢のように浮いて見えた。そこの楼上などには、いつも絶えない浮浪者の群れが、あすの元日を待つでもなく、飢えおののいていたかもしれないが、しかし、とにかく泰平の恩沢ともいえることには、そこらの篝番の小屋にも、町なかの灯にも、総じて、酒の香がただよっていた。都の夜靄は酒の匂いがするといってもいいほど、まずは穏やかな年越しだった。
「さ、戻りましょうず。……若殿、又太郎さま。……はて、これは困った。いつのまにやら、邪気も無う、ようお寝みだわ」
一色右馬介は苦笑した。ゆり起しても、若い主人の寝顔は、居酒屋の床几に倚ったまま、後ろの荒壁を背に、ぶらぶら動くだけなのである。
「これはちと、参らせすぎたな。やはりお年はお年」
右馬介は侍者として、急に自分の酔をさました。ここは錦小路の、俗に“請酒屋”とも“小酒屋”ともよぶ腰かけ店だ。こんな所へ、ご案内したと知れただけでも、あとで上杉殿からどんなお叱りをうけるかと。
かつて、自分は六波羅の大番役も勤め、都は何度も見ていたが、又太郎ぎみには、初めてのご見物だ。すべてが、もの珍しくてならないらしい。
ところで、こんどの上洛では、彼も驚目したことだが、なんと都には、酒屋が殖えたものだろう。――という感を、ここの亭主にただしてみたら、十年前には醸造元の“本酒屋”も百軒とはなかったものが、当今では洛中だけでも二百四、五十軒をこえ、その上、近江の百済寺で造るのや、大和菩提寺の奈良酒だの、天野山金剛寺の名酒だの、遠くは、博多の練緯酒までが輸入されてくる有様なので、請売りの小酒屋も、かくは軒を競っておりますので、ということだった。
なるほど、これは自分たちの国元、関東などでは見られない。
だが、この凄まじい酒屋繁昌は、人心の何を語っているものか。ただ単に、これも泰平の余沢といえる現象なのか。
主従しての、そんな話から浮いて、つい、
「何も土産ぞ。奈良酒とやら百済酒とやら、ひとつ、飲みくらべてみようではないか」
と、なったものだ。
これは、又太郎から、言い出したこととしても、こんなにまで飲ませてしまったのは、重々自分も悪かった、と思うしかない。
「若殿、若殿。もはや相客とて、たれ一人おりませぬ。さ、立ちましょう。除夜の鐘もそろそろ鳴る頃……」
又太郎は、やっと眼をさました。醒めた顔は、いとどあどけないほど若々しくて、ただまぶしげにニヤリと笑う。そして、直垂の袖ぐちで、顎のよだれを横にこすった。
「…