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私本太平記
しほんたいへいき
作品ID52423
副題03 みなかみ帖
03 みなかみじょう
著者吉川 英治
文字遣い新字新仮名
底本 「私本太平記(二)」 吉川英治歴史時代文庫、講談社
1990(平成2)年2月11日
入力者門田裕志
校正者トレンドイースト
公開 / 更新2013-01-05 / 2014-09-16
長さの目安約 260 ページ(500字/頁で計算)

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本文より

石の降る夜

 古市の朝は、舟の櫓音やら車の音で明けはじめる。
 ほどなく、散所民のわめき声だの、赤子の泣き声。そして、市の騒音も陽と共に高くなり、やがて型どおりな毎日の生態と砂塵が附近一帯をたち籠めてくる。
「まだ帰らぬの」
「……帰りませんなあ」
 出屋敷の板かべの一間から、日野俊基は、外ばかり見ていた。――夜来、侍いていた石川ノ豊麻呂も、まんじりもしなかった瞼である。
「たかの知れた放免一人、あの二人が、討ち損じるはずはないと思われますが」
 豊麻呂には、自責もあった。
 俊基の身をここへ隠し、つき纒う八荒坊は、高野街道へおびき出して、頼春と菊王の手で打ち果させるという計は、そもそも、自分が妙策と信じていい出したことなのだ。
「ご窮屈でも、弁ノ殿には、しばし、ここにてお待ち下さいませぬか」
「お身はどこへ?」
「万一のため、部下に命じて、高野街道を中心に、手分けさせておりますが、それらの者も、なぜか、まだ一人とて立ち帰って来ません。自身、石川まで行って、吉左右のほど、確かめてまいりまする」
 豊麻呂は出て行った。
 いや、そんな悠長さではなく、飛ぶがごとく駈けてゆく背は、いかにも自責のつよい若者の純情ぶりを思わせる。
 ところが。――その豊麻呂もなかなか戻って来なかった。すでに午すぎ。やっと帰っては来たが、その姿は、朝にもまして疲労と埃にまみれていた。
「どうした? 豊麻呂」
「なんとも、解せぬことになりました。八荒坊が討たれたらしい形跡もなく、頼春と菊王の安否の程もわかりません」
「さては、不首尾か」
「が、部下どもの探りによれば、天見の辺では、八荒坊にもあらぬ偽山伏の放免の死骸が、幾つか見られ、そのどれもが、みな矢キズを負っていたと申しまする」
「はての。二人は、弓は持たなかったはず。さらには、同類の偽山伏が、ほかにも大勢いたとすれば、何ぞの手違いが、起ったものに相違ない」
「されば、放免どもはいつか、弁ノ殿がここにお潜みのことまで偵知したらしく、日頃から居る地元の諜者もみな挙げて、ここの出屋敷のぐるりを見張っておりまする」
「なに、ここをも?」
 俊基は、愕とした。
 すべては破綻か、と思わぬわけにゆかなかった。そして常々、ふところの深くに持っていた一包の毒薬が、すぐ意識となって、肌の毛穴に、人知れず、覚悟をそそけ立たせてくる。
 いちどは鎌倉に囚われた前科の身だ。絶体絶命とみたら、いつでも護持する綸旨を灰として、自身は毒を仰服ぐ決意を秘めていたのである。――しかし、これが公卿というものか、姿は、常と変らぬ静かな人に見えていた。
 まもなく。散所民の板小屋や繋り舟の苫に、チラチラ灯を見る夕となっていた。すると、街から出屋敷の長い土塀の外へかけて、
「喧嘩だ、喧嘩だっ」
 と、俄な人つむじの声がわき揚がッていた。
 喧嘩は散所街の名物といってもいい…

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