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私本太平記
しほんたいへいき |
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作品ID | 52424 |
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副題 | 04 帝獄帖 04 ていごくじょう |
著者 | 吉川 英治 Ⓦ |
文字遣い | 新字新仮名 |
底本 |
「私本太平記(三)」 吉川英治歴史時代文庫、講談社 1990(平成2)年3月11日 「私本太平記(二)」 吉川英治歴史時代文庫、講談社 1990(平成2)年2月11日 |
入力者 | 門田裕志 |
校正者 | トレンドイースト |
公開 / 更新 | 2013-01-08 / 2014-09-16 |
長さの目安 | 約 232 ページ(500字/頁で計算) |
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山門の二皇子
ここで日と月は、少し以前へもどるが。
足利家の大蔵邸に預けられていた囚人僧のひとり忠円が、鎌倉表から越後へ流されて行った前後に、その忠円の密使らしい者が、叡山の坂本にある山門の別当へ、
「なにとぞ、これを大塔ノ法親王さまへ、お直々に」
と、一書を投じて去った事実がある。
それが誰だかわからない。
流罪の僧に、そんな書状を差し立てる自由がゆるされるはずもないし、幕府側の足利家が、そのような違反を見のがしたとも考えられない。さらに使いの者が、投げ文でも投げ込むように、ただ「法親王ノ宮へお直々に」とのみいって風の如く立ち去ったのも、いぶかしい限りであった。
が、何はともかく捨ておけない。
さっそく疑問の書状は、坂本から中堂の執行へとどけられ、執行自身が大塔へ伺って、法親王のお手許へささげた。
「なに、忠円から?」
一ときは、やや御気色をうごかしたが、さして怪しむ容子でもなく、
「そうか」
といって、収められた。
人まえでお披きになる風はない。宮はそれを袂に入れたまま、執行を相手にしばらくは雑談だった。――それも、多くは兵事であった。山門はいまや堅固な城塁と何の変りもなかったのである。ひとたび中堂の大梵鐘が三塔十六谷を鳴り揺すれば、日ごろ訓練に怠りない三千の僧兵がいつでも雲のごとく武装して立つほどにまでなっている。
この準備は、昨今のことではない。――宮が、叡山第百十六世の天台座主として山入りされた三年前からの奨励だった。
それも山門大衆の訓練にとどまらず、宮御自身も武技の鍛錬に衆目をみはらせたものである。むかし鞍馬の僧正ヶ谷における牛若もかくやと思われるばかりだった。――ことし元弘元年の秋、二十四歳の御血気なのだ。
執行が帰ったあと。
宮は自室へこもって、しずかに疑問の一書を読んでおられた。――いや、宮には疑問ではない。囚われの僧忠円は、宮が梶井の梨本ノ門跡としておわした頃の侍僧である。べつな意味では近臣といってもいい。
書中には「――この便りは足利家の情による」とも認めてあった。そうだろう、と宮はうなずかれた。囚人の忠円に、足利家が手厚くしてくれているという消息も、何かでお耳に入っていた。
しかし今。
忠円が越後へ流されるに先立って密かに知らせてきた内容には容易ならぬものがある。
幕府の内では、すでに、現帝の遠島を考えているだけでなく、大塔ノ宮はこれを殺害し奉らねば、到底、北条氏の安穏はないと、密議一決しているというのであった。
そのため、上洛軍の兵員や将の選考も着々進められている由、その奇襲に驚くことなきよう、機先を制して、対処の策を――とも、忠円の書は告げていた。
「すわ」
と、お胸も騒いだにちがいない。
しかし、豪胆きわまる天性でおわしたのだ。御父の後醍醐に似て、後醍醐以上なところがある。しばしは机…