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八寒道中
はっかんどうちゅう |
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作品ID | 52439 |
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著者 | 吉川 英治 Ⓦ |
文字遣い | 新字新仮名 |
底本 |
「治郎吉格子 名作短編集(一)」 吉川英治歴史時代文庫、講談社 1990(平成2)年9月11日 |
初出 | 「講談倶楽部」1929(昭和4)年1月号 |
入力者 | 門田裕志 |
校正者 | 川山隆 |
公開 / 更新 | 2013-03-27 / 2014-09-16 |
長さの目安 | 約 32 ページ(500字/頁で計算) |
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一
笛は孤独でたのしめる。――いつか旅で笛を吹く心境のふしぎな陶酔の味を知って、今では、安成三五兵衛の腰には、大小と印籠のほかに、袋にはいった一笛がたばさまれて、かれの旅に離れぬものとなっていた。
それは、桑名の城下で、すすけた古物屋の店ざらしの中から見つけ出した笛だった。値はお話にならないくらい安かったが、手がけてみると逸品で、誰か、名人の手になった作にちがいない。
彼は、もうその笛を、三、四年も持ち馴れていた。
ただすこし気に染まないのは、竹管に傷つけてある笛の銘だった。――沈め刀に青漆をさして、小さく、
「八寒嘯」
と、彫りつけてある。
どうもそれが彼には、おそろしい冷たさに感じられてくるのだ。音色に鬼韻のあるのは好ましいとさえ思うが、八寒嘯という銘の意味を酌むと、なにもかも白い氷に凍てている天地が想像されてならない。
そのくせ、当の安成三五兵衛その者は、どういう人かと見ると、これはまた、痩身衣にも耐えずという風采で、眼ざしは執着のねばりを示し、眉は神経質に細くひいて、顔いろだけが長い旅に焦けているが、その唇は冷やッこくすねて、哄笑も微笑も忘れているかに見える。
永いこと家庭をもたぬ人の特長として、ひどく青年らしいところもあるが、年は三十四、五だろう、すべてが「冷たい感じの人物」である。
その三五兵衛が、「八寒嘯」の字義を気にかけるなどは少しおかしいが、同性相忌むというから、彼のような冷徹な型の人間は、かえって、つよい温か味を欲するのであるかも知れぬ。たとえば女のようなもの。――それも凡な女ではなく、いつも火のような情炎を肌のあぶらに焚いている女の……。
× × ×
「ほ。仁和寺流……」
三五兵衛は標札に足をとめて、静かな構えの玄関をのぞいた。
萩の袖垣に、塗障子の床玄関、笛師らしい住居である。
「旅先のものでござるが、お珍しいお流儀、同好なれば、何とぞ一曲御指南を」
野袴のチリをはたいて、取次をたのむ。
通されて、三五兵衛は笛師春日平六という人品のいいおじいさんの前へ出た。
「吹いてごらんじゃい」
彼はつつしんで、八寒嘯を袋からとり出し、漢曲の月騒恨をひとくさり吹いた。
老笛師平六はうなずいて、
「まあ、そんなもんじゃな。だが、一噌でなし千野流でなし……どなたに師事れたの」
「我流でございます、ただすきなために」
「ふん、自然にな。それでいいのだ、折にふれての心を吹く。魂を遊ばせる。それでいいのでございますわい。……だが笛のせいもあるじゃろうが、おそろしく寒い音色、察するにお手前は、孤独でござるの」
「御明察のとおりでございます」
「お年にしては寥落なお姿、その音が笛にあらわれる。笛ほど嘘をつかぬものはないでな」
「心に邪気があって、吹けないことが屡[#挿絵]ございます」
「そうとも。殺気をふくめば…