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治郎吉格子
じろきちこうし |
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作品ID | 52442 |
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著者 | 吉川 英治 Ⓦ |
文字遣い | 新字新仮名 |
底本 |
「治郎吉格子 名作短編集(一)」 吉川英治歴史時代文庫、講談社 1990(平成2)年9月11日 |
初出 | 「週刊朝日 秋季特別号」1931(昭和6)年10月1日 |
入力者 | 門田裕志 |
校正者 | 川山隆 |
公開 / 更新 | 2013-03-18 / 2014-09-16 |
長さの目安 | 約 42 ページ(500字/頁で計算) |
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立つ秋
湯槽のなかに眼を閉じていても、世間のうごきはおよそわかる――。ふた月も病人を装って辛抱していたこの有馬の湯治場から、世間の陽あたりへ歩き出せば、すぐにあしのつくというくらいな寸法は、なにも、気がつかずに立った治郎吉ではなかった。
素袷の肌ごこちや、女あそびを思わせる初秋の風は、やたらに、治郎吉を退屈の殻から唆った。
――で、無性に、あぶない世間が恋しくなって、有馬の槌屋を立ったのが七十日ぶりの爽やかな秋の朝で、湯治中すっかり馴染になった湯女のお仙が、彼の振分を持って、坐頭谷まで送ってくれた。
「もうこの辺で結構だ。お仙さん、また来年会おうぜ」
治郎吉がいうと、
「いえ、武庫川まで」
と、お仙は、いつまでも振分を渡したくないように抱えこんで、蛍草の咲く道をふんでいた。
「おこころざしは有難えが、そいつは、かえって名残がますというもんだ。宿でも、変に思うといけねえから、ここらで、帰った方がいいぜ」
「――だから、旅のお客は、たよりがない」
「どっちにしても、生涯、有馬にいるわけにはいかねえもの」
「わたしも、江戸へ、連れて行ってくださいな」
「じょ、じょうだんだろう」
「ほんとにさ! ね、治郎さん」
人通りが絶えていた。女は、ついと小戻りをして、治郎吉の袷の袂を、ねじきるようにつかんだ。
「……ね、治郎さん」
「よせやい」
胸へ、もってくる顔を、邪慳にかかえて、
「みッともねえ、泣くやつがあるもんか」
「わたし、行きたい」
「どこへ」
「どこへでも、治郎吉さんと、いっしょにさ」
「そんな約束じゃなかったぜ。……さ、人が通ると、評判にならあ、はやく、帰ンねえ」
「嫌! ……わたしは急に、帰るのが嫌になった。連れて行ってください、どこへでも」
「わからねえことを言っちゃ困る」
「だって、お前さんの足手まといにさえならなけれや、いいんでしょう」
「そうはゆかねえ」
嘆息のように言ったのである。
ありふれた湯女とお客の御多分なみに、ほんの、退屈まぎれな、いたずら心でした事を、軽く後悔するように。
第一、相手の女にもよる。こう、後腹を痛めるほど、値うちのあるきりょうとは、惚れられている彼の眼にも踏めていなかった。
「帰ンねえってことよ」
振分をもぎ取って、治郎吉は、先へ歩きだした。
女は、黙って、武庫川の見えるまで尾いて来た。――ちッと、舌うちを鳴らしながら、
「お仙、どうしても、帰らねえのか」
「…………」
「おめえはまだ、おれの、ほんとの素姓を知らねえからそう慕ってくるんだ。実あ、おらあ江戸をずらかって来た兇状持ちだ。悪いこたあいわねえから、おれと、なんかあったなンていうこたあ、[#挿絵]にも、他人にいわねえ方がおめえのためだぜ」
「そんなことは、とうに、知っています」
女は、驚きもしなかった。
「えっ、知ってる?」
「有馬へだって…