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峠に関する二、三の考察
とうげにかんするに、さんのこうさつ |
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作品ID | 52466 |
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著者 | 柳田 国男 Ⓦ |
文字遣い | 新字新仮名 |
底本 |
「山の旅 明治・大正篇」 岩波文庫、岩波書店 2003(平成15)年9月17日 |
初出 | 「太陽」1910(明治43)年3月 |
入力者 | 川山隆 |
校正者 | 酒井裕二 |
公開 / 更新 | 2014-09-19 / 2014-09-15 |
長さの目安 | 約 11 ページ(500字/頁で計算) |
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一 山の彼方
ビョルンソンのアルネの歌は哀調であるけれども、我々日本人にはよくその情合がわからない。日本も諾威に劣らぬ山国で、一々の盆地に一々の村、国も郡も村も多くは山脈を以て境しているが、その山たるや大抵春は躑躅山桜の咲く山で、決してアルネの故郷の如く越え難き雪の高嶺ではない。山の彼方の平野と海とは、登れば常に見える。他郷ながら相応の親しみがある。中世の生活を最も鮮かに写している狂言記、あれを読んで見てもよくわかるが、山一つ彼方に伯母さんがあって酒を造っていたり、有徳人が住んで聟を捜していたりする。自分も子供の頃は「瓜や茄子の花ざかり」とか、「おまんかわいや布さらす」とかいう歌の趣をよく知っていた。その頃は小学校の新築の流行する時代であった。どの山へ登って見てもペンキ塗の偉大なる建築物が、必ず一つずつは見えた。そして振返って見ると自分の里も美しかったのである。
二 たわ・たを・たをり
境の山には必ず山路がある。その最初の山路は、石を切り草を払うだけの労力も掛けない、ただの足跡であったのであろうが、獣すら一筋の径をもつのである。ましてや人は山に住んでも寂寞を厭い、行く人に追付き、来る人に出逢おうと力めるから、自然に羊腸が統一するのである。それのみならずどうしてこの山を越えようかと思う人の、考がまた一つである。左右の麓を回れば暇がかかる、正面を越えるなら谷川の川上、山の土の最も多く消磨した部分、当世の語で鞍部を通るのが一番に楽である。純日本語ではこれを「たわ」といい(古事記)また「たをり」ともいっている(万葉集)。「たわ」「たをり」は地名と為って諸国に存するのみならず、普通名詞としても生きている。鎌倉の武士大多和三郎は三浦の一族で、今の相州三浦郡武山村大字太田和はその名字の地である。伊賀の八田から大和へ越える大多和越、その他この地名は東国にも多く、西へ行くほどなお多い。「たをり」という方では大隅の福山から日向の都城へ越える小山、今は馬車の走る国道であるが、その頂上の民居を通山という。伊予喜多郡喜多灘村大字今坊字トオリノ山、備前邑久郡裳樹村大字五助谷字通り山、美濃恵那郡静波村大字野志字通り沢、越後南蒲原郡大崎村大字下保田字通坂、常陸那珂郡勝田村大字三反田字道理山等も皆これである。中国では峠を「たわ」または「たを」といい、その大部分は乢の字を当てている。乢はいわゆる鞍部の象形文字で、峠の字と同じく和製の新字である。内海を渡って四国に入れば、「たを」とは言わずに「とう」と呼ぶけれども、「とう」はまた「たを」の再転に相違ない。土佐の国中から穴内川の渓へ越える繁藤に、肥後の人吉から日向へ越える加久藤は、共に有名な峠であるがこの藤もまた「たを」であろう。「たうげ」は「たむけ」より来た語だというのは、通説ではあるが疑を容るる余地がある。行路の神に手向をするのは必ず…