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貪婪禍
どんらんか
作品ID52524
著者太宰 治
文字遣い旧字旧仮名
底本 「太宰治全集11」 筑摩書房
1999(平成11)年3月25日
初出「京都帝國大學新聞 第三百十七号」1940(昭和15)年8月5日
入力者小林繁雄
校正者阿部哲也
公開 / 更新2011-12-01 / 2014-09-16
長さの目安約 4 ページ(500字/頁で計算)

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本文より

 七月三日から南伊豆の或る山村に來てゐるのだが、勿論ここは、深山幽谷でも何でもない。温泉が湧き出てゐるといふだけで、他には何のとるところも無い。東京と同じくらゐに暑い。宿の女中も、不親切だ。部屋は汚く食事もまづい。なぜこんな所を選んだのかと言へば、宿泊料が安いだらうと思つたからである。けれども、來て見ると、あまり安くもない。一泊五圓以上だ。一日の豫定の勉強が濟んで、温泉へ入り、それから夕食にとりかかるのであるが、ビールを一ぱい飮みたくなつて女中さんに、さう言ふと、
「ございません。」とハツキリ答へる。けれども、女中さんの顏を見ると、嘘だといふことがわかるので、
「ぜひ飮みたいんだ。たつた一本でいいのですから。」と笑ひながら、ねだると、
「ちよつとお待ち下さい。」と眞面目な顏で言つて、部屋を出て行く。しばらく經つと、やはり眞面目な顏をして部屋へやつて來て、
「あの、少し値が張りますけれど、よろしうございますか。」と言ふ。
「ええ、かまひません。二本もらひませう。」と、こちらも拔け目がない。
「いいえ、一本だけにしていただきます。」
 いやに冷淡に宣告する。
 このごろは宿屋も、ひどく、おたかく止つてゐる。物資不足は、私だつて知つてゐる。無理なことはしない。お氣の毒ですが、とか何とか、ちよつと言ひかたを變へれば、雙方もつと、なごやかに行くのに、どうも、ばかにつんけんしてゐる。勢ひ、客も無口になる。甚だ重苦しい。少しも、のんびりしない。私は寄宿舍で勉強してゐる學生のやうである。
 窓の外の風景を眺めても、別段たいしたこともない。低い夏山、山の中腹までは畑地である。蝉の聲がやかましい。じりじり暑い。なぜ、わざわざ、こんなところへ來たかと思はれる。
 けれども私は、ここを引き上げて、別の土地へ行かうとも思はない。どこへ行つたつて、似たやうなものだといふことが、わかつてゐるからである。私の心が、いけないのかも知れない。以下はフロべエルの嘆きであるが、「私はいつも眼のまへのものを拒否したがる。子供を見ると、その子供の老人になつた時のことを考へてしまふし、搖籃を見ると墓石のことを考へる。女の裸體を眺めてゐるうちに、その骸骨を空想する。樂しいものを見てゐると悲しくなるし、悲しいものを見ると何も感じない。あまり心の中で泣いたから、外へ涙を流すことが出來ない。」などと言へば、少し大袈裟で、中學生のセンチメンタルな露惡趣味になつてしまふが、私が旅に出て風景にも人情にも、あまり動かされたことのないのは、その土地の人間の生活が、すぐに、わかつてしまふからであらう。皆、興覺めなほど、一生懸命である。溪流のほとりの一軒の茶店にも、父祖數代の暗鬪があるだらう。茶店の腰掛一つ新調するに當つても、一家の並々ならぬ算段があつたのだらう。一日の賣上げが、どのやうに一家の人々に分配され、一喜一憂が繰り…

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