えあ草紙・青空図書館 - 作品カード

作品カード検索("探偵小説"、"魯山人 雑煮"…)

楽天Kobo表紙検索

その日のこと〔『少年』〕
そのひのこと〔『しょうねん』〕
作品ID52729
著者牧野 信一
文字遣い新字旧仮名
底本 「牧野信一全集第一巻」 筑摩書房
2002(平成14)年8月20日
初出「少年 第二一三号(動物愛護号 五月号)」時事新報社、1921(大正10)年4月8日
入力者宮元淳一
校正者門田裕志
公開 / 更新2011-07-12 / 2014-09-16
長さの目安約 2 ページ(500字/頁で計算)

広告

えあ草紙で読む
▲ PC/スマホ/タブレット対応の無料縦書きリーダーです ▲

find 朗読を検索

本の感想を書き込もう web本棚サービスブクログ作品レビュー

find Kindle 楽天Kobo Playブックス

青空文庫の図書カードを開く

find えあ草紙・青空図書館に戻る

広告

本文より


 たゞぼんやりと――自分は安倍さんの顔を瞶めた、必ずや自分の顔も安倍さんと同じやうに蒼然と変つてゐたに違ひない――大正十年三月五日午後二時十分――ちよつと自分はテーブルを離れて、どこだつたか歩いてゐた、さうしてテーブルのところへ帰らうとして、ストーブの前へ来た時、向方から慌しく駆けて来た安倍さんが、
「アツ……君々、大井君が死んだとさ……」
「えツ?」まさか、そんなことはあるまい、――と自分は思つた。
「青山へ電話をかけて、直ぐに行かう……」
「では山口さんに」と呟きながら自分は山口さんを探しに行つた。何だか、嘘のやうな気がしてならない、さうしてこの驚きを山口さんに知らして――さうしてまた山口さんの驚きの顔を見ることが堪えられないやうな気がした。
 漸く[#挿絵][#挿絵]店に山口さんを見附け出した自分は、
「……山口さん、山口さん、アノ……大井さんが……」と自分は漸く伝へることが出来た。それを云つて了つて自分はこれは大変なことになつた、といふ気持が初めてピツタリと感ぜられて来た。
 それから先のことは自分は書くことも堪へられないのである。――逗子には安倍さんが行くことになつた。――自分達は怖ろしい夜の中で、未だ望みを持ちながら切りに待つた。笑ひ顔の大井さんより他想像出来ぬ自分は、笑ひ顔の大井さんを想ひながら――。
「ヤア、心配かけて済まなかツた。」と云つて帰つた時、自分は何と云はうかしら――自分はそんなことだけを考へてゐた。
     ――――――――――
 今自分は名状し得ぬ寂しい気持で、このペンを握つてゐる。さうして何にも書けないのである。自分の隣りに並んで居るテーブルと椅子……埃りが溜つてゐる。インキ壺、硯箱、ペン……「お前達は孤児になつたな。」……自分は今凝と其の方を眺めてゐる……。
(三月十八日午後)



えあ草紙で読む
find えあ草紙・青空図書館に戻る

© 2024 Sato Kazuhiko