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祖母の教訓
そぼのきょうくん
作品ID52738
著者牧野 信一
文字遣い新字旧仮名
底本 「牧野信一全集第二巻」 筑摩書房
2002(平成14)年3月24日
初出「読売新聞 第一六八四五号」読売新聞社、1924(大正13)年2月12日
入力者宮元淳一
校正者門田裕志
公開 / 更新2011-07-25 / 2014-09-16
長さの目安約 4 ページ(500字/頁で計算)

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本文より

 実家を離れて、ひとり住ひをして見ると、私は祖母のことを往々思ひ出す、一昨年の春、七十余歳の老衰病で静かに歿くなつた母方の祖母である。
 何年か前の学生時分、東京で永くひとり住ひをしたが、一週間に一度は屹度実家へ帰つたものだ。「一週間に一度」は妙だが――当時稀に見る怠惰学生だつた自分は、土曜日も日曜日もあつたものぢやなかつたのだが、帰る時は必ず土曜日を定めて帰り、月曜日の朝きちんと再び帰京するのだつた。それで祖母と母との手前に、暗に「善良な学生」を取りつくろひ、同時に自らの怠惰を責める楔とした。――何でも一度、落第を余儀なくされた時、怠惰学生には多く豪傑の徳があるが、自分にはそれが無く至つて小胆で、大いに狼狽して、一寸世をあぢけ無く思つたりしながら倉皇と先づ祖母の許に走つた。だが自分は祖母の部屋へ一思ひに飛び込めずに廊下にたゞずんだ。
「誰だ! そこに立つてるのは?」
「…………」
「名無し権兵衝か……それとも盗賊か?」
「私だ。」自分は慌てゝ低く答へた。
「ほう! 珍しい名前があつたものだ。わたしはこの年になる迄「私」と云ふ名前の人に出遇つたことはない、「私」さんまア此方へお入りなさい。そこははしぢかですわ。」
 ――一体貴様にはさういふ癖がある、東京へ行つてゐれば貴様の顔で他人様を訪ねることもあらう、名前が名乗れぬ時は腹を切つて死ぬ時だ、問はれたら名乗るのが礼儀だ、他人に物を云ひかける時には先自分から名を名乗るべきだ。――何時ものことだ。自分はまた一本祖母から叱られた。自分が五歳の幼時から二十何歳の当時迄祖母を訪るゝこと四千回にも及んだらうが、到頭自分はたゞの一回も祖母の手前で名乗りを挙げて、その得心を得たことはなかつた。
 落第のことを両親に秘して呉れ――と自分は祖母に頼んだ。男の頼みなら、何で口外するものか、だがいつそこのおばアさんにも黙つてゐればよかつたのに――祖母はさう云つてきゆつと口を結んだ、確に一つ涙をのんだらしかつた。……あなたゞから云ふがこれこれのことは他人には云つてくれるなと、さういふ頼みは再び繰り返すな。馬鹿は恥にはならない。怒る時は真剣勝負だ。出しやばりは万々ならん。貴様が学校を出て何んな処に勤めるか知らんが、その頃は私は生きてもゐまいが、金銭に目が暮れて心を売つたり分不相応なことを仕出かしたりすれば、私は墓の下から声を掛けて叱るぞ。貧棒をしたつて恥にはならない。会社へ出て上役の御機嫌が取れなければ御免蒙るといふんなら御免蒙られう。家へ帰つて一生役場に勤めても好いから身ギレイに世を渡つてくれ。木綿の着物を着てゐると云うて笑ふやうな友達とは一切附き合ふな。ところで落第のことは私が引受けた――。
 さう祖母からきつぱりと承諾されると私は自分のさみしい了見を見透されたやうで辟易したが、やつぱり意久地なく点頭いてしまつた。祖母のおかげで落第…

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