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小田原の夏
おだわらのなつ
作品ID52760
著者牧野 信一
文字遣い新字旧仮名
底本 「牧野信一全集第三巻」 筑摩書房
2002(平成14)年5月20日
初出「雄辯 第十九巻第八号(八月号)」大日本雄辯会講談社、1928(昭和3)年8月1日
入力者宮元淳一
校正者門田裕志
公開 / 更新2011-09-01 / 2014-09-16
長さの目安約 3 ページ(500字/頁で計算)

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本文より

忘れる

「暑さ、涼しさの話。」
 おや/\、もう夏なのか!
 僕は忘れてゐた。――それで、壁の鏡をのぞいて見ると僕の額は玉の汗だ。なるほど僕は薄いシヤツ一枚だ、白いパンツだ。いつ頃僕はこんな身なりに着換へてゐたことか?
 この机の一輪ざしには桃の花が活けてある。だから僕は、未だ、夏になつてゐるとも思はなかつた、誰が活けたものなのか知らないが、何時にも窓をあけることもなしに、煙草を喫しながら時折眼をそゝいでゐた花だ。
 だが、今はじめて、仔細にみると、何だ! これは造り花か! 蜘蛛の巣が張つてゐるではないか、馬鹿々々しい。
 棄てゝしまへ!
 そして窓をあけて見よう。

タンク

 あゝ、泳いでゐる/\、あんなに沢山の人が、何とまあゝ面白さうに!
 僕も、このまゝ、素ツ裸になつて飛び出したくなつたが、僕の机の上には、冬から春へかけての季節を背景にした苦しい文章の草稿が、戦乱の原野の如く、四散してゐる……夜も昼もなく、そして、この戦ひには、春も夏もなく――僕は、タンクの如く、野を過ぎ、丘を寄切り、山を越えて行かなければならないのだ。――さうだ、この窓は、タンクの展望口だ。うか/\と、あけツ放しで、口などあけて、渚の方などを見惚れては居られないのだ。
 どうせ、タンクの中は蒸し暑いに決つてゐる。



 そんなことを思つて、午休みに僕はゆれ椅子に凭つてうとうとゝ居眠りをしてゐると、潜航艇の乗組員になつた夢を見た。
「僕ははじめて、これに乗つたんだけれど、そして、もつと不気味なものかと想つてゐたが、これぢや僕は自分の書斎にゐるのと少しも変らないよ。これで、これが、そんな深い海の底を走つてゐるのかと思ふと、嘘のやうだ! 面白い/\。」
「今、黒煙りのやうなものが窓先をかすめたらう。あれは吾々の五倍も大きい蛸入道だぞ。」と傍らの士官が説明した。
「あそこに、しのんで来たのは敵艦かな?」
「あれは、大烏賊の主だ。」
「デビル・フイツシユ奴!」
 いつの間にか私は、ラツパ手であつた。吾々は、それらの怪物を退治に来た決死隊なのであつた。
 艦内は、にわかにどよめいた。
「ラツパ卒! 何故、戦闘準備の合図をせんのか!」
 斯う云はれるまでもなく私は、一生懸命にラツパを吹いてゐるのであつたが、何うしても音が出ないのである。私は、無茶苦茶に焦れて、渾身の息をこめてゐるのであるが、鳴らない、不思議だ。デビル奴等の妖術に翻弄されてゐるのか――。
 私の全身からは滝のやうなあぶら汗が流れ、私はラオコーンのやうに身悶えた。

夕風

 夕暮時に吾家から通じて来た電話――。
「高輪のS子さんが来ましたよ。若しお暇があつたら明日から、あなたに泳ぎを習ひたいんですつて、えゝ、今日も行つたわ。浜から見えたわよ。あなたが居眠りをしてゐらつしやるところが。お午寝なんてしてゐる位ゐなら、是非明日から…

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