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真夏の夜の夢
まなつのよのゆめ
作品ID52801
著者牧野 信一
文字遣い新字旧仮名
底本 「牧野信一全集第四巻」 筑摩書房
2002(平成14)年6月20日
初出「時事新報 第一七三一二号、第一七三一四号、第一七三一五号」時事新報社、1931(昭和6)年8月20日、22日、23日
入力者宮元淳一
校正者門田裕志
公開 / 更新2011-09-19 / 2016-05-09
長さの目安約 8 ページ(500字/頁で計算)

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本文より



 私は「喜劇考」と題して喜劇の発生に関する物語を、宇宙万物の流転の涯しもない煙りが人々の胸に炎えて怖ろしく佗しい道をたどつて行く原始人の底知れぬ落莫感に起因したといふ話を聞いて、自分達の住んだ村の風景を描写することで叙述したことがあるが、喜劇も悲劇も発生の混沌時代にあつては、断じて笑ひとか涙とかで分類出来ぬ――単に人間の、壮麗な宇宙と卑小な生命に戦く恐怖と憧憬の歌に源くのみであつた。
 不図私は今思ひ出したのであるが、「悲劇は――」と――。だが、これは夢でもなく、また私の勿論創作でもなく、たしかに田舎の水車小屋の二階で読んだ何かの書物からの思ひ出であるが、書名が思ひ出せぬ。またその薔薇とマートルの花を自分で描いた表紙の、そしてまた裏表紙には、詩人ホメロスがロータスやマールの花が咲き乱れてゐる花園に寝てネクタアの大盃を挙げながら――神々も眠り、人々も眠り夜はわが花園に冴へ、死の国の静けさ――あれはツロイの陣営か、耳をそばだてると、徐ろに聞えて来る、縷々として絶間なく夜をこめて、管笛と竪笛と琴の合奏が、悦ぶが如く、悲しむが如く――左ういふ自作の歌をうたつてゐる孤独の婆が描かれてゐる大型の私のきらびやかな「悲劇」に関する抜萃帖のことであるが――。私は、書籍は去年の春、止むない事情で、悉く売却してしまひ、手許に残つたのは同型の三冊のノートブツクだけだつた、夫々厚さは三センチ程であるが、紙が厚いので頁は三百位有るか何うか、無罫紙にして田舎の製本屋で造つて貰つた、Aの表紙には、ゼリアンが牛車を曳く苦悶の姿を描き、裏にはジゴンの饗宴の場を描いた、そして背に金文字で「嘆きの谷で拾つた懐疑の花弁」と活字を容れた。日記帳なので。Bの表紙には、プラトンがオリムピツクの学芸会で「芸術否定論」を発表してゐる姿、裏は――未だ無地で、何を描かうかと此頃でも考へてゐる――「喜劇論」に関する抜萃帳である。
 で、Cの「悲劇論」に関する手帖であるが――その中には、その書名も無論誌してあり、また私がここに誌さうとする精密な抜書もあるのだが――私は、これを抱へて街に出かけて、泥酔して、不幸にも紛失してしまつたのだ。多分タクシーの中に置き忘れたのであらう。あの時の若い運転手君、生活の花々しい尖端に戦ひつゝある勇士よ、パンアテナイア祭の戦車競技の選手よりも颯爽たる君よ、あの晩君は、京浜国道を疾走中私がパンの歌をうたつたら暫し車を止めて月を仰ぎ、私の歌に酔つて賞讚の握手を求めて呉れた、友よ、これを読んで思ひ出したら届けて下さい、田舎の海辺に今はもう誰も住んでゐない蔦のからまつた窓のあるバンガローが私の所有に残つてゐる、これを貴君の所有に移さうから――。
 何故また私がそんな抜萃書などを無闇にも街中へなど持出したかと云ふと、私は夏のはぢめからかかつて時に触れ折を見ては「サチユーロス頌歌」と題する詩を…

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