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「学生警鐘」と風
「がくせいけいしょう」とかぜ |
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作品ID | 52818 |
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著者 | 牧野 信一 Ⓦ |
文字遣い | 新字旧仮名 |
底本 |
「牧野信一全集第五巻」 筑摩書房 2002(平成14)年7月20日 |
初出 | 「新潮 第三十巻第七号(七月号)」新潮社、1933(昭和8)年7月1日 |
入力者 | 宮元淳一 |
校正者 | 門田裕志 |
公開 / 更新 | 2011-09-22 / 2014-09-16 |
長さの目安 | 約 13 ページ(500字/頁で計算) |
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氷嚢の下
旅まくら
熱になやみて風を聴く
とり落した手鏡の
破片にうつる
いくつものわが顔
湖はひかりて
ふるさとは遠い
*
夜をこめて吹き荒んだ風が、次の日もまたその次の日も絶え間もなく鳴りつづけてゐるといふ――そのやうな風に私はこの町ではぢめて出遇つた。硝子戸を隔てて軒先から仰ぐ灰色の空に花びらが舞ひあがつて雪のやうである。まくらもとに迷ひこんで来たひとひらを拾つて見ると、梅である。まだ、そんな花が咲きのこつてゐるのかとあやしまれる。――鳴動する部屋の隅に倒れて、八度六分の熱に浮されてゐる。風は私の魂までも粉々にして、花びらといつしよに空高く巻きあげてしまつた。どこまで飛んで行つても、一片の言葉にも出遇はない。口のなかでは氷のかけらが忽ちとけてゆく。
義妹夫妻がここに赴任してゐるので、一両日のつもりで途中下車をこころみたのであつたが、この有りさまでは切符の期間も切れさうだ。消えてゆく雪の風景を眺めながら奥州を一巡して、麦藁帽子の頃に帰京するつもりなのであるが、このあしこしの立つのを待つうちには、さすがの奥州路もやがて爛漫たる春と化してしまふであらう。
*
私はあの時、風の吹き荒む丘の端にうづくまつて湖を見おろしてゐた。風のいきほひで言葉は恰で通じさうもなかつたから、弟も妹もそして私も無言のままで湖と停事場と汽車を見降してゐた。弟の口先からこぼれる莨の煙りが、走る列車の窓で喫ふ煙りのやうに瞬時に消えた。まつたく私の心は飛び散るがままの花びらであつた。
「ああ、お師匠さんが欲しいよ!」
*
「お師匠さんが欲しいのだよ!」
どこまで追ひかけても、つかまへることも、見ることも出来ない風のくるめきに私は昏倒しかかつて救けを呼んだ。ひとり言を呟いだ。その時以来、このひとり言がすつかり口癖になつてしまつて、煙草のやうに、ウワ言にまでも繰り返してゐるのだが、それには勿論ひとに説明できるやうな意味があるわけではなく、ただあまりのたよりなさに不意と口吟んだ口笛に等しかつたのであるが、うつかりと呟く間に、弟達に屡々聞きとられてゐたのであつた。
「お師匠さんはもうお見えになつてゐる頃でせうよ。」
「はやく行つて見ませう。」
彼等は、私の夢とも知らずにさう促すのであつた。
「余程熱心なのと見へて寝言でも、同じことを云つていらつしやいましたよ。」
「あたしも、兄さんの腕をハイケンしたいわ。」
私は、たつたひとりのつもりでひとり言を呟きながら歩いてゐた夜道の上で、突然返事を聞いたかのやうに驚いたが、と云ふて別段あとへ退かうといふほどの間の悪さも感じなかつたのである。弟達は、彼等の先輩にあたるZ先生に、私を紹介しようといふのであつた。Z氏は武徳殿の兵法家であつた。そして、天狗党の豪士の末孫の由であり…