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魚籃坂にて
ぎょらんざかにて
作品ID52819
著者牧野 信一
文字遣い新字旧仮名
底本 「牧野信一全集第五巻」 筑摩書房
2002(平成14)年7月20日
初出「文藝春秋 第十一巻第八号(八月号)」文藝春秋社、1933(昭和8)年8月1日
入力者宮元淳一
校正者門田裕志
公開 / 更新2011-09-25 / 2014-09-16
長さの目安約 6 ページ(500字/頁で計算)

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本文より

 魚籃坂に住んで二度目の夏を迎へるわけだが、割合にこのあたりは住み心地が佳いのだらうか、何時何処に移つても直ぐその翌日あたりから、さてこの次は何処に住まうかといふやうなことを考へはじめるのが癖なのに、そしてひとりでそつと上眼をつかひながら、放浪といふ言葉などを想ひ描いて切なく寂し気な夢を追ふのが癖なのに、珍らしくもあまり引越しのことなどは考へずに――また夏となつた。寺町で樹木が多いので到底市中とは思はれぬやうな昆虫類が棲息して去年は美しい鱗翅、脈翅、有吻、鞘翅、膜翅の類ひを居ながらにして八十種あまり採集した。甲虫や玉虫やサイカチなどの類ひが、こんなところでこんなに採れるのかと標本を拵へて見て今更の如く驚いた位ゐであつた。僕は飛びまはる虫を捕獲したり発見するのは寧ろ不得意であるが、標本の製作は仲々適確で、最も古いのは二十年あまり以前の製作品を、僕からその頃寄贈されたまゝ今なほそれは完全を保つて客間や書斎の壁飾りにしてゐる知友を四五人も数へることが出来る。キリギリス、バツタ、スヾムシ、マツムシ、クツハムシ、ケラ、コホロギ、カマキリなどゝいふ難渋な直翅類の標本でも、いさゝかな変色もなく、或る種は翅をひろげ、触手を張り、脚を伸して恰も生けるが如き恰好を保つてゐるのである。去年の甲虫や玉虫やそして膜翅の類ひを完全な一箱にして、ミセス・ナンシーといふアメリカの友達に贈つたら、恰度虫類を模造した帽子ピンや指輪や襟止めがハヤつてゐるところで、特に美しい日本の珍品――蜂類がもてはやされて、あちこちで見本にされた、来年の夏は別種のものを再び切望してゐる、あたしの親愛なる藪蔭の友よ――と書いて新型の誘蛾灯を送つて寄越した。
 僕はクマバチに頬つぺたを刺されたので蜂類の採集は苦手であるが、去年の時は主に正ちやんが採つて呉れた。夏になると僕の二階は暑過ぎて困るので、泉岳寺の裏山の窪地にある花屋の二階を借りるのであつたが、正ちやんはその隣りの息子で去年尋常六年生だつた。学校の庭で毎朝ラヂオ体操があるから一処に行かうと彼は毎朝早く僕と僕の子供を起しに来るのであつたが、僕はつい朝寝をしてしまつて三回しか同行出来なかつた。然も僕は多くの老若が勢ぞろひをして手振り足振りおもしろくをどつてゐるさまは、見物だけで涙が出るほど嬉しくあつたが、とてもその仲間に加はつて、あんなに凜たる表情で体操するなんていふことは健康などは関つてゐられない位ゐ恐縮するばかりであつた。正ちやんは体操の帰りに僕の家に寄り終日遊んで行くのが習慣だつた。彼は虫を採るのが天才であつた。僕には玉虫や甲虫は容易に見付からぬのであるが、彼が近所の寺の境内を一巡して空しく戻つて来る験しはなかつた。その上、正ちやんのお母さんは御殿の草とりに雇はれてゐて、正ちやんは弁当を運ぶので、いつもそのついでに、三本の尾が躯の六倍も長いウマノヲバチや、…

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