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水車小屋の日誌
すいしゃごやのにっし
作品ID52821
著者牧野 信一
文字遣い新字旧仮名
底本 「牧野信一全集第五巻」 筑摩書房
2002(平成14)年7月20日
初出「帝国大學新聞 第四九八号」帝国大學新聞社、1933(昭和8)年10月23日
入力者宮元淳一
校正者門田裕志
公開 / 更新2011-10-22 / 2014-09-16
長さの目安約 6 ページ(500字/頁で計算)

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本文より



 今度東京へ戻つてからの住むべき部屋を頼む意味の手紙を八代龍太に書くつもりで、炉端で鉛筆を削つた。酒を飲んでゐる平次と倉造が、茶わんの杯をさして、村境の茶屋に三味線の技に長けたひとりの貌麗しい酌女が現れてゆききの遊冶郎のあぶらをしぼつてゐるとのことであるから見参に赴かうではないかと誘つた。賛成の旨を応へ、手紙一本書く間を待ち給へ、と二階へあがつた。窓からは、暮色の波に揺れる一面の稲田が、もう遥の山々は空との境もなく深い宵暗に閉ざされてゐるので――沼の観であつた。向ふ岸に一点の灯が見ゆるのだ。茶屋の灯である。村里を左様に離れた畑中に、ひとり花やかな館を営む所以を不思議と思つたところが、彼は同村民を野蛮で吝嗇の徒と排して、夙に街道の旅人を招ぶべき念であつたとのことである。茶屋の者達は努めて都の言葉を用意して、村言葉の連中をわらふとの由だつた。
 龍太への手紙を書かうと紙に向つてゐると、抽象的観念の実在――斯んな文句がいつものやうに口をつくと、例によつて全身に異状な熱湯の竜巻が萌して二枚三枚五枚と書きつゞけ、終ひに七枚となつた時、不図窓の向方を眺めると、山の頂きがほの白んだ空の裾に青黒く鮮明な隈どりを描き、いなご取りの群がたんぼ道へ繰りだす明方であつた。炉端へ来て見ると平次と倉造が各々拳を固め、胸板と太もゝを張り自暴のかたちで熟睡してゐた。若しもそのまゝ二人を地蔵起しにして、台石の上に立てかけたならば二体の仁王像であると思はず戦いた。倉造の左眼は義眼であり、また平次は、当人の言によると激しい疳癖性のために睡眠中にも眼ぶたを伏せぬ癖とのことを聞いたが、はつきりとその証拠を見、また義眼者の眠れる表情の怪奇に戦竦した。



 馬を引きだして駅へ向つた。封書の目方を計つて投函するためには二里の山坂を越えた駅の郵便局へ赴かなければならなかつた。書き落した用件は、今夜三行のハガキで済まさうと思つた。茶屋は深く戸を閉してゐた。登楼の念切なるを感じてゐたが、馬に乗り、枯草色のシヤツを着け、風を引きかけてゐる身の大事をとつて小屋の引籠からつかみだした虫臭いほんとうの赤毛布をマントにしてゐる姿を思ふと、いつになつたらあの門を潜れるかと歎ぜられた。平次と倉造は、伊達の眼鏡や金鎖を所蔵して他所行の着物も二通りあるから、いつでも一着は借すであらう、身装りさへ整へれば断じて水車小屋の人夫とは想像されぬと自負してゐたが、借り物は堪えられぬのだ。前夜はこのまゝで関はぬと決心したのだつたが、今その前を通過して見ると、館は真新しい舟板の塀を囲らせて、しやれた灯籠や庭木のあんばいが眼になどついた。こゝより他に歓楽の酒を売る一軒の居酒屋もなかつた。自分は享楽児でありながら、いつも彼方の明るみへ向つては眼前に深い沼を感じて、たぢろいでばかりゐるので、口惜し紛れに「抽象的」になど走るるのかと考へた…

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