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喧嘩咄
けんかばなし |
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作品ID | 52840 |
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著者 | 牧野 信一 Ⓦ |
文字遣い | 新字旧仮名 |
底本 |
「牧野信一全集第六巻」 筑摩書房 2003(平成15)年5月10日 |
初出 | 「文藝放談」1935(昭和10)年4月 |
入力者 | 宮元淳一 |
校正者 | 門田裕志 |
公開 / 更新 | 2011-11-06 / 2014-09-16 |
長さの目安 | 約 9 ページ(500字/頁で計算) |
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ちかごろ或る日、十何年も他所にあづけ放してあるトランクをあけて見ると昔のエハガキブックや本や手帳にまぢって、二十歳前後の写真を二束見つけた。その中に“To Mr. S. Makino. ――From Saburo Okada”と誌された手札型の岡田三郎の半身像と、「屋上」小会紀念とある故片上伸先生をとりまいた一団の学生の写真があった。学生は十四人ならんでゐるが(斯ういふ写真には裏に名前を書いておくべきだと思ったことには――)そのうちに、浜田広介、須崎国武、下村千秋、水谷勝、岡田三郎、神崎勝とまでは指摘出来たがその他の七人は、顔には覚えがあるのだが何うしても名前が浮ばなかった。「屋上」といふのは原稿紙を綴ぢて一冊とする廻覧雑誌の名で、僕は何とかといふ全くはぢめて書いた小品を岡田三郎の手から綴ぢて貰ひ、それぎりだったので準会員といふやうな感じで何時その雑誌が止めになったのかも知らなかったが三郎との交際はそのころからはぢまった。何時どうして変になったのか、別段反感を覚えたり喧嘩をした覚えもなく、彼がフランスへ発つ時には送りにも行き帰朝の時には迎へにも行ってゐるところを見ると、口も利かなくなつたのはその後のことらしいが信一としてはどうしてもはっきりとした源因が思ひ当らぬのである。だが日を経るに伴れて益々変梃で終ひには銀座などで出過ってもどちらもその顔つきは厭に嶮しく果はフンといふやうな態度を示すに至ったのである。浅原六朗と三郎がいろいろと人の集ったところで徹底的に牧野の悪口を吐くといふことを聞き、また彼等の、折々見た僕に関する文に接すると事毎に暗然とさせられるのであった。三郎といふ男は何か悟ったとこのあるやうなやつで、妙に人の悪口を云はないね――と、僕は柏村といふ亡友と学生時分からはなしてゐたので、聞くにつけ意外の感に打たれた。六朗には漠然としたことで種々の源因もあり、また僕の小説の文中にそれとなく突き返すような個所があったりして無理もなかったが、感想の筆やまた人の前でも僕が少しも彼等のことを口にしないのが、狡いとか白々しいとかといふ風な感じを与へて二重に苛立たせた結果に赴いたと想像された。事実、だまってゐるといふ態度は如何にも相手を黙殺し、軽蔑でもしてゐるかのやうな感で僕としても二重に若しかったわけであるが、不幸にして僕は平和円満論者で「人生は舞踊といふよりも寧ろ相撲に似てゐる」といふ言葉の反対で、寧ろ舞踏と云ひたく、そゞろ感傷的になって黙ってしまふに他ならないのであった。
それは、新興芸術派といふ旗が花々しく翻ってゐる頃であった。或る暑い日に牛込のS社を僕が大変寒気だった思ひで訪れ、二階の階段の突き当りにロビーのやうな型ちをとって夏だけ置いてあった椅子にぼんやり腰かけてゐると隣りの部屋から大声で、今時牧野なんぞは古臭くって――とか、あんなひとり好がりな馬鹿野…