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作品ID52842
著者牧野 信一
文字遣い新字旧仮名
底本 「牧野信一全集第六巻」 筑摩書房
2003(平成15)年5月10日
初出「モダン日本 第六巻第四号(四月特別号)」文藝春秋社、1935(昭和10)年4月1日
入力者宮元淳一
校正者門田裕志
公開 / 更新2011-11-18 / 2014-09-16
長さの目安約 3 ページ(500字/頁で計算)

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本文より


 日暮里の浅草一帯から、大川のはるか彼方の白い空がいつもほのぼのと見渡せる、その崖のふちの新しい二階家の――どうしたことか、その日は、にわかな荒模様、雨や雪ではなくつて、つむぢ風の大騒ぎだつた。かれと僕は、その縁側の硝子戸の蔭に、籐椅子に向ひ合つたまゝ、ぼんやりとその景色を眺めてゐた。どこを、どう飲みあるいたものか、さんざんの態たらくで、何も知らず、例によつてひとりでかれの寓居を突然に朝つぱらからの訪問だつた。かれはおどろいて、わけをきくのであるが、おそらく僕は、おこつたやうな顔つきで、嵐ばかりを眺めてゐたのだ。かれほど、僕のそんな顔つきを持てあます人は絶無であつた。それを知りながら、何故また僕は――と、おもふのであるが、どうすることも出来ない、僕は遊蕩児だつた。
 ――で、どこを、何うしたといふのさ……まあ、待てよ、いますぐ仕度が――。
 ――酒は、もう、駄目らしい。
 と僕は呟いたが、かれは、わらひもせず知らぬ振りだつた。
 そのときかれが詠んだのが、

金魚の荷嵐のなかにおろしけり

 といふ稀代の逸作だつた。かれこれもう十年のむかしのはなしだが、何も彼もが、きのふの夢よりもあざやかである。
 つい、このあひだの晩――とても、かれは若くて、何ヶ月間の禁を破らうとして、ぐず/\と眼などを据ゑてゐた僕は、たぢ/\だつた。
 ――しかしいやにけふは元気があるね。ヨコスカなんかに住んでゐる馬鹿はないぞ。
 ――痩我慢だよ。酔ひたいとおもつて、力んでゐるところで。
 と僕は、坐り直した。
 かれは、やがて、ウヰスキイだつた。僕は、それは、いつかな手に執れなかつた。ハラハラしてゐるうちに、僕も酔つてしまひ、井伏鱒二へからむのであつた。
 何処を、何う歩いたものか、そんなに酔つてはゐなかつたつもりだが、あまりはつきりしないのであるが、最後に、飛行会館の外の梯子段を、大した勢ひで駈けるが如くあがつてゆく、かれのあとについて息をきつてゐた、ひとりの自分が見えて来る。下の露路に、河上徹太郎が、ぼんやりとたゝずむでゐるのが薄霧のなかに見えた。もう東の空が白んでゐた。
 ところが、やうやく六階(?)の演芸場へたどりつくと、そこでは未だ花々しく戯曲「村道」の舞台ごしらへの最中で、未だ未だ宵のくちのやうな活気を呈してゐた。
 かれは、坐席に泰然と腰をおろして凝つと舞台を視詰めてゐたがやがて、眠つてゐるらしく、僕もちよつと眠りそのまゝかれの知らぬ間に引きあげた。

信一の心づかひや夜半の春     万

 ふと、あの晩持つてゐた手帳を見ると、かれの文字を見出した。万――久保田万太郎。夜半の春……春にはちがひない、一月二十八日の晩だつた。
 僕、ウヰスキイのために、わずらつて、東京を離れてゐること一年に及んだ。



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