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月評
げっぴょう
作品ID52844
著者牧野 信一
文字遣い新字旧仮名
底本 「牧野信一全集第六巻」 筑摩書房
2003(平成15)年5月10日
初出「読売新聞 第二〇九〇八号、第二〇九〇九号、第二〇九一〇号、第二〇九一二号」読売新聞社、1935(昭和10)年4月26日、27日、28日、30日
入力者宮元淳一
校正者門田裕志
公開 / 更新2011-11-06 / 2014-09-16
長さの目安約 12 ページ(500字/頁で計算)

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本文より



 読むのがのろいからと心配して――これで僕は四ヶ月もつゞけて(三ヶ月間は、「早稲田文学」のために――)早く出るものからぼつ/\と読みはじめ、さて、いよ/\書かうといふ段になると、十日も前に読んだものゝ記憶は大ぶんあやしくなり、また繰ひろげて、あれこれと戸惑ひ、結局時間に追はれて半分も読み損つてしまふ有様は、まるでアダムスン漫画のやうであつた。記憶があやしくなるといふても、決して不熱心な顔つきで失敬な読み方をなしてゐるわけではないので、それこそアダムスンのやうに徹底的に生真面目過ぎるわけなのだが、それがその難物で、ツケル薬が無い態の融通を欠いたあまたの悲しみに相違ないんだけれど、不思議なことには何んな稚拙な作品であつても、文芸的要素の勝つたものは、忘れようとしても忘れられるものではなかつた。通俗的とか大衆的とかといふものは、もともと本来なる文芸の起原と要求からは全く出発点を異にしたもので、それらの社会的なる花々しさに混同されて、どつちつかずの通俗味に病ひされたかの如き、そのやうなものがつい記憶が怪しくなるといふまでのことで、それにしたつて書く場合でゞもなければそれはそれで別段のこともないわけで、僕にしたつて、では誰の何の作が左様であつたかと思つても、それはもう大方忘れてゐるのだ。ともあれ、純文学は純文学であつて、ポーの口真似をするわけではないが、よしやそれらが唐丸駕籠におしこめられて、裁きの庭に伴れ込まれようとも、既にして多くの純文学徒は絶対なる、而して単なる生命の窮極に於いて払ふべき塵も持たざる本来の無一物から、夫々の、EL Dorado……への身構へであつて、おそらく誰にしろ余技的気分でなど、望んでもたづさはり得よう筈もなく、もともと左様なことが望み得ない絶対境からの出発なのだ。
 で、先に手にする雑誌はいつも大概文芸専門の「早稲田文学」「新潮」「行動」「文藝」「作品」「三田文学」等で、更に之らの創作欄は八分乃至九分どほりまでは新進作家の作品をもつて満載され、然も四ヶ月も続けて通覧して見ると、作家の顔ぶれなども大体固定してゐて、同じ作家のものが同月の雑誌に二つも載つてゐるのも珍しくなく、月々に同じ人の作品にも出会ひ、その他の雑誌にだつて種々なる新しい力作がそろひ、おそらく過去を通じてこれほど新作家の優遇された時代は絶無であつたかの観であり、品質だつて非常に劣つてゐるとは思はれなかつた。勢急なる批評の言葉をもつて、何かといふ場合にはその平凡さを云々しなければならぬけれど、創作壇が特にその他の芸壇に比べて逡巡してゐるわけでもなからうし、寧ろ順調なる発達を遂げてゐるのではなからうか。やがて追ひ詰められて俳句や和歌のやうな窮地へ陥るであらうといふやうなことは随分以前から屡々使はれる言葉であるが、それは文芸に依つて非常に華やかなる生活を望まうとする人々への忠告…

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