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或るハイカーの記
あるハイカーのき
作品ID52869
著者牧野 信一
文字遣い新字旧仮名
底本 「牧野信一全集第六巻」 筑摩書房
2003(平成15)年5月10日
初出「旅 第十三巻第五号(五月号)」日本旅行倶楽部、1936(昭和11)年5月1日
入力者宮元淳一
校正者門田裕志
公開 / 更新2011-11-06 / 2014-09-16
長さの目安約 9 ページ(500字/頁で計算)

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本文より

 適量の日本酒を静かに吟味しながら愛用してゐれば、凡そ健康上の効用に此れ以上のものは無いといふことは古来から夙に云はれて居り、わたしなども身をもつてそれを明言出来る者であつたが、誰しも多くの飲酒者は稍ともすれば感情のほとばしるに任せては後悔の種を育てがちになるのも実にも通例の仕儀ながら、わたしも亦その伝で銀座通りなどをおし歩きながらウヰスキーをあをりつゞけたお蔭で、例に依つて例の如く、終ひに閑寂なる療養生活に没頭しなければならなくなつた。兎も角、十何年もの間それに親んで来たものが、一朝にして盃を棄てなければならないといふ段になると容易ならぬ騒動だつた。おそらくそれは失恋者でもあるかのやうな止め度もなく呆然たる日々を持てあまさずには居られなかつた。はぢめの半年は小田原の郊外に移つてゐたが古なぢみの酒友が仲善くて、返つて飲む日が多くなるので、いつそわたしは思ひ切つて、全くはぢめての土地である三浦半島に移つて、横須賀に寓居を定め、金沢、浦賀、三崎、城ヶ島、油壺などゝ、歩いては泊り、泊つては歩いた。恰も、失恋にぼんやりしてゐる友達を慰めてやるかのやうに、酒を飲みたがらうとする自分に向つて、別の自分が親友となり、忘れ給へ、忘れ給へ、否応なく忘れるより他は何うするといふ術のありよう筈はないんだもの……と忠告して、天気でありさへすれば散策へ誘ひ出すのであつた。一里や二里では次第に収まらず、やがて袋を背中につけ、地図をひろげ、薬用酒をポケツトになし――まこと、見るからに頼もし気なるハイカーに相違なかつた。わたしは中学生の時分から、植物や昆虫に通俗的な興味をもつたまゝ現在に至つてゐるので、何処に住んでも大概は何時の間にかあたりの山野を跋渉しつくしてしまふのが慣ひであり、この頃でも網と毒瓶ぐらひの用意は忘れなかつたが、そんなことよりも当時は酒を忘れようとする思ひの方が強かつたので、何は兎もあれひたすらに靴踏み鳴して歩きまはるのであつた。
 そのうちの或る一日のコースを誌さう。この道は東京からの、日帰り乃至は一泊の旅には最も平易であり新緑と海の香りを満喫するに充分であらう。
 わたしは湘南電車(品川発)を、浦賀終点の一つ手前の馬堀海岸駅で降り、先づ観音崎の一周を試みようと思ひ立つたのである。馬堀から走水のキヤンプ・ビレイヂまで約三哩、横須賀からのバスが通つてゐるが、わたしは海のふちを歩いた。砂蟹が人の跫音をきいて八方へ逃げ出すので踏むではならないと気をつけ出すと、蟹の巣が無数に砂の中にならんでゐて、到底そんな風流心を抱いては歩き憎くかつた。街道に昇らうとすると、採取して来たホンダハラやテングサやツノマタを整理してゐる老婆が、灯台へ行くのなら海ぶちを廻つた方が近いのに――と注意して呉れたが、わたしはテングサの間から這ひ出した海綿蟹を一つ貰つて、トンネルを抜けた。重砲学校から響き渡る…

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