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悲しき項羽
かなしきこうう
作品ID52873
著者牧野 信一
文字遣い新字旧仮名
底本 「牧野信一全集第一巻」 筑摩書房
2002(平成14)年8月20日
初出「少年 第一九三号(平和記念号 九月号)」時事新報社、1919(大正8)年8月8日
入力者宮元淳一
校正者門田裕志
公開 / 更新2011-06-10 / 2014-09-16
長さの目安約 5 ページ(500字/頁で計算)

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本文より



 紀元前二百五年、始皇帝の秦は二世に滅びて、天下は再び曇り勝となつた。四隣には密雲が重く垂れ、稲妻に羅星の閃く戦国の夜は、いつになつて明けるやら、見定めもつかなかつたが、忽として頭をもたげた項羽の一睨によつて、西楚の曙は闇の帷を切り落されたのである。旌旗の翻る処、彼の行動は天馬空を征くの趣があつた。子嬰を殺し義帝を追ひ、咸陽を屠つてそれでも飽き足らず、阿房宮も焼いた、始皇帝の墓も発いた。さうして自ら立つて彭城の春を縦まにした。
 ある日の事であつた。項羽は無聊に堪へ兼ねて高殿の勾欄から、無辺に霞む遠近の景色を眺めて居た。あたゝかい小春日の日光に、窓下の梧桐の葉末までが麗はしく輝いて見えた。
「日は限りなく輝いて空には一点の曇りさへ見へぬ。彭城千里は野辺の草まで朕に従つた。朕の威力の及ぶところは、一縷の煙さへ逆はぬ。」
 項羽は侍臣を顧みて哄笑した。
「仰せの通りに御坐りまする。陛下の稜威は四海の果迄輝いて居りまする。」侍臣はかう奉答して恭しく一揖した。



 すると今まで黙つて居た重臣の范増が、
「陛下!」と呼びかけて、
「恐れながら陛下には勇にのみ走つて仁を施すことをお忘れになつては居りませぬか。」
「何といふ?」
 項羽は屹となつて、
「既にかくまで屈服して居る者に仁を施す要はないではないか?」
 范増はこゝぞと一膝乗り出して、
「力で圧へられてゐる者は力が弛めば必ずはね返します。僅の間隙でも生ずれば――そこに彼等は自由を望んで反旗を翻すことは火を見るよりも明かなことではありませんか。麒麟も老ゆれば駑馬に劣るといふ譬のあることをお忘れなさいますな。達すれば又法ありで御坐います。勇は一時のもの、仁は永久のものです。仁を以つて従つた民こそ真の味方です。例令力が消え失せた時でも仁慈の徳は永劫に輝いて居ります。」
 項羽は豁然として覚つた。
「范増よ、善う言ふた。朕は幼時からいつも叔父の梁に諫められた。卿の申す通り朕はその時分から乱暴であつた。書を学んだが成らず、書は姓名を記するに足ると退けてしまつた。剣は一人の敵なりと軽んじて剣道さへも顧みなかつた。梁もあきれてそれ以上、何事も云はなかつた。」
「陛下よ。臣は陛下御自身のためのみならず、楚の未来をも憂慮して居る者で御坐います。どこまでもお諫め申さずには置きません。」
「ようわかつた。が、もう少し朕の言ふ事を聞いて呉れ。」
 項羽は更に言葉を改めて熱心に范増を瞶めた、その眉間には珍らしくも沈静な悲痛な色が浮んで居た。
「范増よ。朕は即ち勇と力とだけが並外れて強かつたが為めに、覇権を握ることが出来たではないか。朕の五体には猛々しい血潮のみが充満してゐる、その他のものを容れる間隙は許されないのだ。」
「戦を鎮める迄はそれだけで結構ですが、然しそれは王者の正道ではありません。」
「解つた。よく解つて居る――解…

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