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![]() ランプのめいめつ |
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作品ID | 52882 |
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著者 | 牧野 信一 Ⓦ |
文字遣い | 新字旧仮名 |
底本 |
「牧野信一全集第一巻」 筑摩書房 2002(平成14)年8月20日 |
初出 | 「十三人 第二巻第三号(三月号)」十三人社、1920(大正9)年3月1日 |
入力者 | 宮元淳一 |
校正者 | 門田裕志 |
公開 / 更新 | 2011-06-28 / 2014-09-16 |
長さの目安 | 約 6 ページ(500字/頁で計算) |
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試験の前夜だつた。彼はいくら本に眼を向けてゐても心が少しもそれにそぐはないので――で、落第だ――と思ふと慄然とした。と、同時に照子の顔が彷髴として眼蓋の裏へ浮んだ。彼にとつて照子の存在が、彼が落第を怖れる唯一の原因となつてゐたので、然も彼は非常に強く照子の存在を意識してゐたから、非常に落第を怖れた。何故なら、
「妾、秀才程美しい感じのするものはないと思ふわ。妾は秀才といふ文字だけにでも、妾の生命の全部を捧げて、涙をこぼして恋するわ。」
「フン。」(彼は、自分が秀才でないといふことを照子が多少侮辱的に云つて居ると知つてゐた)と、つまらない事とセセラ笑つては居たものの、
「僕は照ちやんのやうなお転婆と結婚がしたいよ。」と胸に一縷の望を持つて、いつのことだつたか、戯談紛れに尋ねると、
「妾もよ、秀ちやんのやうな茶目さんと結婚したいわ。」で一撃の下に、笑に附せられてしまつて、彼の言が表現した通りの戯談の儘でとほつたのだからよささうな筈なのに――いつ迄たつても照子の云つた「結婚」といふ言葉を棄てることの出来ない彼なのであつた。それは、「どうしてなのか。」と考へて見れば「惚れてるのだ。」と極めて簡単に解つてゐたが、よく恋の心理を現した歌などに「何故か?」「涙こぼるる」などといふやうに、恋を神秘視してゐるのを見ると、反感とまでゆかず滑稽を感ずる彼だつたが、照子を想つた時はどうやら自分の気持も「何故か……涙ながるる」の気持らしかつた。
時間はどん/\過ぎて行つた。第一頁すら彼の頭には入つてゐなかつた。一秒を刻んだ時計の針に落第を思ひ、さうして失恋(?)をおもつた。――彼は深い溜息をした。――照子が突然死んでしまへばいい、と思つた。
外は酷い暴風雨だつた。激しい雨がしきりに彼の窓を打つてゐた。その中に彼の心は、荒れ狂うて風雨の響の中に溶けて行つた虚無が彼の胸に扉を開いてゐた。
「落第がなんだ。」といふ気がした。
「厚顔無恥の照子だ!」と彼は呟いた。――然し彼は涙が出さうになつた。
突然! 電灯が消えた。と同時に彼の胸は、何やらハツとした。――「いいあんばいだ。」と思つた。「灯が消えては当然勉強は出来ない。」「本をまる覚えした事で、照子の最も讚美する秀才になり得るものならば、勉強が止むを得ず出来なかつたといふ原因で落第しても、――可能性はあるだらう。」こんな事をしきりに考へた彼は稍々安心した。と次の瞬間から彼はただ専念に――安心して照子の事を想つて居た。
真暗な中に凝として、笑ひと悲しみの分岐点にたたずんでゐる自分を瞶めた。恋情といふものは極めて滑稽なものだ、と思ひながら、彼は静坐の姿勢で眼を瞑つた。
「電灯が消えて、試験だつてえのに困るわね。」といふ声でパツと室が明るくなつた。ランプを持つて来た照子は、彼の眼に涙がたまつてゐるのを不思議さうに見た。
「勉強出来て…