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初夏
しょか
作品ID52887
著者牧野 信一
文字遣い新字旧仮名
底本 「牧野信一全集第一巻」 筑摩書房
2002(平成14)年8月20日
初出「少年 第二〇三号(星の秘密号 七月号)」時事新報社、1920(大正9)年6月8日
入力者宮元淳一
校正者門田裕志
公開 / 更新2011-06-24 / 2014-09-16
長さの目安約 7 ページ(500字/頁で計算)

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本文より

 私が中学の三年の時でした。私の親友の河田が、突然自家の都合で遠方へ行かなければならなくなりました。河田とは小学校以来のたつたひとりの親友でしたから、私はその別れを何れ程悲しむだか知れませんでした。
 河田と私とは学校の野球の選手でした。河田が居なくなつて仕舞つた、と思ふと、私はもう野球などやる元気はなくなつて了ひました。次の土曜日に対校仕合があるので、学校の運動場では毎日猛烈な練習が始つてゐて、私もどうしてもそれには出なければならなかつたのですが、私は少しも張合がなく、二三日前から運動場へ姿を現さなかつたのです。他の球友達も心配して毎日のやうに大勢が訪ねて呉れるのでしたが、やはり私の心を知つてゐるものですからすゝめる事も出来ず、しほ/\としてゐるばかりなのです。その同情深い球友達に接すると、私はどうしていゝかわからなくなる程、たゞ悲しさばかりが込み上げて来るのでした。私が出なければ私に代るべき捕手のない事も私は充分承知はしてゐたのでした。
「あゝ、つまらないな。」と私は思はず溜息を洩らしました。私の書斎には、土によごれたユニフオームが淋しく懸つて居りました。当り前ならバツトやボールと一緒に物置の隅に投げ込むで置くのでしたが、もうそれを着て河田と輝かしいスタンドに立つことも出来ないかと思ふと、それが河田との紀念のやうにさへ思はれて、はかないものとは思ひながらもさうして置かずには居られなかつたのです。机の前から凝と思ひ出の深いユニフオームを瞶めてゐると、幻の中だけでは喜ばしい心になることが出来たのです。
 野球の事ばかりではありませんでした、河田と私との間にはその他に思ひ出せば種々なことがありました。
 ――丁度前の年の夏の事でした。その年に初めて私達の学校では水泳部がもうけられて、有志の学生だけが、教師に引率されて或遠方の海浜へ出掛けることになつたのです。
 私は、どうしてもその水泳部に加はりたかつたので、河田はさして行きたがつても居なかつたのを、無理に、「何だ元気のない。」などと説き落して、二人はそれに加はりました。私達は真黒になることばかりを誇り合つて毎日を愉快に暮しました。
 ある朝のことでした。海は紺碧に澄み渡つて、一点の雲さへ見えぬ穏かな空で、白鳥は地平線に呑まれる迄はるかに見かすむで、半島が絵のやうに薄紫に煙つて居りました。
「ボートで遠乗をしようか。」と河田は海辺の舟に腰掛けて、その美しい海面を見渡しながら云ひました。私は直ぐに賛成しました。
 二人乗の小さなボートに乗つて、私達は空と同じやうに晴れ渡つた美しい心で、「夏は――夏は、鴎とぶ品川へ……」などと歌ひながら沖へ沖へと進んで行きました。そんな好い天気なものでしたから、他にも沢山な漁船やらボートなどが木の葉のやうに浮いて居りました。
 私達は沖へ遠く出る事に小さな誇さへ感じて居りましたもの…

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