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凸面鏡
とつめんきょう |
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作品ID | 52890 |
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著者 | 牧野 信一 Ⓦ |
文字遣い | 新字旧仮名 |
底本 |
「牧野信一全集第一巻」 筑摩書房 2002(平成14)年8月20日 |
初出 | 「新小説 第二十五巻第八号(八月号)」春陽堂、1920(大正9)年8月1日 |
入力者 | 宮元淳一 |
校正者 | 門田裕志 |
公開 / 更新 | 2011-07-08 / 2014-09-16 |
長さの目安 | 約 14 ページ(500字/頁で計算) |
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「君は一度も恋の悦びを経験した事がないのだね。――僕が若し女ならば、生命を棄てゝも君に恋をして見せるよ。」と彼のたつた一人の親友が云つた時、
「よせツ、戯談じやねえ、気味の悪るい。」、と二人が腹を抱へて笑つてしまつて――その笑ひが止らない中に、彼はその友の言葉に真実性を認めたから、自分を寂しいと思ふ以上に、親友の有り難さに嬉し涙を感ずる、と同時に、「そんなに心配して呉れないでもいゝよ。」と答へ度いやうな安心と軽い反抗とを感じた。それは彼が恋をした最初の瞬間、同時に失恋をしたところの道子を思ひ出したのであつた。一分間の中で、恋をして、失恋をして、さうしてその悶へと、恋の馬鹿々々しさとを同時に感じて、然もその同じ一分間を何辺となく繰り反した「ある期間」を道子の前に持つた事がある、と彼は思つてゐたから、――あの一分間をだら/\に長く延したものを持つた人が、所謂「美しい恋の絵巻」の所有者となつて誇り、あの一分間に感じた失恋を、ちよつと形を違へて(幸ひにも)長く経験した人は痛ましい失恋者となつて自殺することも出来るが……自分は――で、もう、あらゆる恋の経験はして来たのだ、といふ気がしてゐた。この気持が友によく解つたら友は屹度安心するだらう、が何しろその恋なるものゝ形式が余りにはかないので、どうやら言葉で説明したら、この親愛なる友を慰める事が出来るだらう、……と、など彼は考へて居た。
「しむみりしたいゝ晩だね。――どうだい君、散歩は止める事にして、ひとつどこかへ飲みに行かないか。」と友が云つた。
――あべこべに、慰めやうとしてゐるな……と彼はムツとした。どうやらわけが解らなかつた程強い、友に対する反抗心と自暴と妙な落着きとが、不愉快な気持となつて、彼の理性に逆つた。
「俺はもう絶対に遊びや酒は止めやうと思つてゐるのだから、行くのなら一人で行き給へ。」と彼は云つた。――友は帰つた。
――矢張り自分は道子に真実に恋した事だツたのだな、と彼は、友に今持つた感情が間違ひでなかつた、といふ気がした。
……何にも考へてゐないぞ、と思はるゝやうな清々しい平静な気持で、彼は剃りかけてゐた顔を剃り初めて居た。
――一処に出掛けやう、ちよいと顔を剃る間待つてゐて呉れ、と友を待たせて居た間に、つい友を帰らせてしまつて、でも少しもその事は心に反応を感じなかつたが――奇麗に顔を剃り終へて、ふと、ホツとした刹那、
「あゝ、一処に行けばよかつた。」といふ気がした。
後を追ひ掛けて見やうかな、と思ひ乍ら彼は煙草に火を点けて坐り直した。――道子が嫁に行つてしまつてから一年目の春のある夜だつた。
*
「妾はね、随分痛ましい恋のヒロインなのよ。事情といふ、妾達にとつてはどうでも関はないものゝために、心から愛し合つてゐる二人が別々の世界に離されてしまつたの。
それが運命なの…