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坂道の孤独参昧
さかみちのこどくざんまい
作品ID52903
著者牧野 信一
文字遣い新字旧仮名
底本 「牧野信一全集第一巻」 筑摩書房
2002(平成14)年8月20日
初出「人間 第三巻第八号(八月号)」人間社出版部、1921(大正10)年8月1日
入力者宮元淳一
校正者門田裕志
公開 / 更新2011-06-20 / 2014-09-16
長さの目安約 39 ページ(500字/頁で計算)

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本文より

 何故俺は些う迄性のない愚図なんだらう、これツぱかりの事を何も思ひ惑ふにはあたらない、手取り早く仕度さへすれば二時間も掛らないで出来上る……が、純造は「明日こそは――」と叱るやうに決心した。前々の日に出掛ける筈で既に叔母から旅費はちやんと貰つて大切に机の抽出に蔵つてはあるのだが、つい出遅れて、これも度重なつて具合も悪く、この日は午後から到々頭痛がすると称して二階の室に寝て了つたのである。――眼を瞑ると、渺茫たる青海原が陽春の日の下に凪ぎ渡る……間もなく彼の肉体はその喜びだけで充満する――「一時も早く彼の海辺へ走らう、それだけが今の俺は唯一の心からの希望だ。」と、思つて行先の想像に恍惚として、熱海へ行つてからの細かな処まで様々に想ひを回らす、――丁度望遠鏡か何かで遠くの美しい景色を眺めてでもゐるかのやうな怠惰な悦びを感ずる、――と、今日でなくてよかつたと思ふ、明日迄このしみつたれた予想に耽り得る時間に延び延びとしたルーズさを覚ゆる、――その怠惰さ加減を彼は今強く叱つた筈だつた。で、彼はもう明日迄も待てさうもない気持に焦かれて、突然爪先を整えると怖ろしい勢ひで被着を蹴つた。燐寸の棒を折つた様に胴と脚とが殆ど直角に屹立して、臀を中心にしたそれは弥次郎兵衛の通りに二三回フワフワとぎつこんばつたんをした。「それで腕組をした儘起き上れるか?」「他合もない。」「ならやつて見ろ。」――そんな興味を感ずると、一寸胸を轟かせて一つ勢ひを附けて「ヨイシヨツ」と思つた。見事に起き上れた時子供らしい喜びを、ふいと感じた。
 夕暮れで、白い雲が徐ろに動いてゐた。彼は椽端の籐椅子に身を落して空を眺めた。たゞ喟然たる気持のみが不安な程胸に拡がつてゐた。旅先の楽しい幻も稍ともすると「何にも考えてゐない」――白い煙りの彼方へ紛れ込みさうになる、――旅を想ふ余りの幻なのか、それとも単なる無稽な妄想なのか、見境ひが付かなくなる。……彼は難解な顔付をして、烈しく首を振り回した。ガラン胴の鈴でもあるかのやうに、たゞ軽かつた。さうしてピタリとその振動を止めた。――沈丁花の香りが、ふいと香つた。頭の中には、鐘をついた後のやうな微かな余韻だけがフラフラと残つてゐた。純造の意識は、たゞ執拗にその響きを追つてゐるのみだつた。
「明日からのことは先づそれでいゝとしても、今夜はこれからどうしよう。」――さう思つて見たのも、今に限つてはそれが故意に考えてゐるやうにも見えて、その先の手段に迄は想ひを運ぶ気もしなかつた。――切りに煙りを吹いてゐるばかりだつた。吐息の合間合間に丁子の香りがした。小さな庭の隅に咲いてゐる花だつた。……沸々として涌き出づる泉の微温が潺湲と胸に滾れたかと思ふと、愚かな五体は徐ろに無何有の郷に溶けて行つた。で、脳裏は風船玉の如く、洞ろな肢体は春の海に漂ふ舟の如くに軽く、「ひねもすのたりのたり」の海…

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