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香水の虹
こうすいのにじ
作品ID52907
著者牧野 信一
文字遣い新字旧仮名
底本 「牧野信一全集第一巻」 筑摩書房
2002(平成14)年8月20日
初出「少女 第一〇九号(新年号)」時事新報社、1921(大正10)年12月8日
入力者宮元淳一
校正者門田裕志
公開 / 更新2011-06-10 / 2014-09-16
長さの目安約 7 ページ(500字/頁で計算)

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本文より

 窓帷をあけて、みつ子は窓から庭を見降した。やはらかな朝の日射が、ふかぶかと花壇の草花にふりそゝいでゐる。
 姉はカーネーシヨンの花が好きだつた。花壇の隅に美しく咲き誇つてゐる桃色の花を眺めながら、みつ子は姉のことをしきりに想ひつゞけた。きらきらと映へた外光はもの懐しく流れてゐる。
 姉様がお嫁に行つてしまつてから、もう一年たつたのだ。みつ子は今更のやうにそんなことを考へた。行つた当座は少くも、一週に一度は必ず手紙を寄越したけれど、それもいつの間にか怠り勝になつたと見へて……。
「あゝさうだ。」と、みつ子は恰も突然何かを見出したやうに点頭いた。……「ふた月ばかり前に絵葉書をたつた一枚寄したきりなんだ。」
 今更そんなことは考へて見る程のこともないのだが、ふとさう想ひ出して見ると、みつ子は何だか姉が恨めしく思はれてならなかつた。別れるとき、あんなにも堅く、ふたりで涙をこぼして約束したにもかゝはらず……「お姉様もずゐぶんだわ!」とみつ子は思はずには居られなかつた。
 お姉様が居なくなつたら、此方はどんなに淋しいか? 私はどんなにつまらないか? 夫等のことは姉様の方が余程よく承知してゐる筈なのに――等とみつ子は、夫から夫へと、とりとめもなく姉の幻を追つてゐるうちに、いつか涙が頬を伝ひ初めてゐたのに、自分は気が付かなかつた。
 みつ子は気がくしや/\してしまつて、じれつたさうに窓際を離れた。さうしてソファの中にぐつたりと身を落した。幾らでも泣けさうな気がする。無暗に口惜しくてたまらなかつた。
「此の間うちから病気になつて了つて、毎日/\苦しい/\日ばかりを送りつゞけてゐます。」――そんな手紙を書いて姉を驚かせてやらうかしら、などゝみつ子は考へた。――「食物も少しも進みません、外へ出て遊ぶ気もしません、このまゝの日が続いて行つたら、しまひに私は……」と、そこまで考へて行つたみつ子は、その次の言葉を想像して、思はずプツと笑ひ出してしまつた。あゝ、私は何といふ我儘な子だらう、何といふ嫌な子だらうと思つた。さう気附くと、みつ子は急に恥かしくてたまらなくなつた。みつ子は自分で自分の口をギユツと抓つた。――さうすると、また可笑しくなつた。慌てゝ立ち上つたみつ子は、室の中をあつちへ行つたりこつちへ行つたり、あはたゞしく歩きまはつた。
「みつ子! みつ子!」
 奥の方で母の声がした。――みつ子はハツと思つた。わけもなく頬のあつくなつて来るのが自分に感ぜられた。……まア、私は何といふ意久地なしだらう、と思つたが、どうしても返辞が出来なかつた。
「みつ子! みつ子!」
 みつ子の胸はどきどきと鳴つてゐた。何だかワツと声を挙げて泣き出してしまひたいやうな気持になつた。呼ばれた時に返辞をしないといつも叱られるのだつた。また、返辞をしないことは、大へんに悪いことであるといふことも、みつ子自身…

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