えあ草紙・青空図書館 - 作品カード

作品カード検索("探偵小説"、"魯山人 雑煮"…)

楽天Kobo表紙検索

清一の写生旅行
せいいちのしゃせいりょこう
作品ID52910
著者牧野 信一
文字遣い新字旧仮名
底本 「牧野信一全集第一巻」 筑摩書房
2002(平成14)年8月20日
初出「少年 第二二七号(七月号)」時事新報社、1922(大正11)年6月8日
入力者宮元淳一
校正者門田裕志
公開 / 更新2011-06-28 / 2014-09-16
長さの目安約 7 ページ(500字/頁で計算)

広告

えあ草紙で読む
▲ PC/スマホ/タブレット対応の無料縦書きリーダーです ▲

find 朗読を検索

本の感想を書き込もう web本棚サービスブクログ作品レビュー

find Kindle 楽天Kobo Playブックス

青空文庫の図書カードを開く

find えあ草紙・青空図書館に戻る

広告

本文より

 ある土曜日の放課後、清一はカバンを確かりとおさへて、家ンなかへ慌しく駆け込むやいなや、其の儘帽子も脱がず、
「お母さん!」と叫んだ。
「何だね、騒々しいぢやないか。お前またお友達と喧嘩でもしたんぢやないの?」と、縫物をしてゐた彼の母は、驚いたやうに軽く眼を挙げて彼を睨んだ。
 学校から家までかなりの道程を、夢中になつて駆けて来た清一は、息が切れて、おまけに少し慌てると、吃る癖のある彼は、容易に言葉が続けられなかつた。
「どうしたんだね、清一!」
 母は清一が眼を白黒させてゐる様子を見ると、思はずプツと笑ひ出した。
「あの……ね、お母さん……ぼゝゝゝ僕ツ……!」
「慌てることはないよ。御用があるんならゆつくりお云ひよ。落着いて……」
 此の一言に力を得て、清一は漸くの事で、之から直ぐに鎌倉の叔父さんのところへ行きたいといふ意味を母に伝へる事が出来た。といふ訳は、清一の学校では今度展覧会が開かれることになつたので、
「今度の展覧会は、諸君も承知の通り一年に一回しか催されない、云はゞ諸君の晴れの舞台なのだから、そのつもりで大いに腕を奮つて下さい。」と、一同を激励したあとで、先生は、期日も迫つて来た事だから、そろ/\製作に取り掛つたらいゝだらうと、深切な注意を与へた。
「山野清一君、君は何を出すつもりか?」
 銘々の者に向つて質問した挙句、先生はかう清一にも訊ねた。
「画を出します。」と清一は大した分別もなく、殆ど夢中でさう答へて了つた。
「写生かい?」
「はい! さうです。」
 清一は体中が熱くなる程興奮して、自家まで駆けて来たのである。清一は別に画が得意といふわけでもなかつたのだが、さう先生に問はれた時、例の吃音の癖でドギマギしてゐるうち、うつかりさう答へて了つたのである。――写生をするなら東京ぢやとても駄目だ、と清一は思つた。何故なら彼は恥かしがりの性分で、とても人の目にふれる場所でそんなことをする勇気はなかつた。と、云つて静物やなんかでは何となく物足りないやうな気がしてならなかつた。それで、彼は鎌倉の叔父さんの家へ行つて、誰も人が居さうもない海辺で、秘かに大作を物しあげようと決心したのであつた。
「何もそんなに大袈裟に、鎌倉くんだりまで出掛けなくつてもいゝぢやないの。どうせ碌なものが出来るわけぢやあるまいし。」と笑はれたが、清一はどうしても承知しなかつた。
 それから間もなく絵具箱、紙挟み、水筒――そんなものをカバンの中へ入れて、清一は鎌倉へ写生の旅に向つた。

 翌朝、清一は夜明け頃から眼を覚して、ひそかに胸を躍らせてゐた。朝飯をそこそこに済ますと、早速カバンを抱へて海辺へと急いだ。空は好く晴れてゐた。緑の松、紺碧の海原、白く輝く砂、雲の影もなく晴れた空、雅致ある漁船――至るところに好画題が満ち溢れてゐた。――が、清一にとつてはそんなことは第二の問題だつ…

えあ草紙で読む
find えあ草紙・青空図書館に戻る

© 2024 Sato Kazuhiko