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妄想患者
もうそうかんじゃ
作品ID52913
著者牧野 信一
文字遣い新字旧仮名
底本 「牧野信一全集第一巻」 筑摩書房
2002(平成14)年8月20日
初出「新小説 第二十七巻第十一号(十月号)」春陽堂、1922(大正11)年10月1日
入力者宮元淳一
校正者門田裕志
公開 / 更新2011-06-12 / 2014-09-16
長さの目安約 60 ページ(500字/頁で計算)

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本文より



 ふつと、軽い夢が消えると、窓先を白い花が散つてゐた。何かにギクリと悸された鼓動の余韻が、同じやうに静かに、心から散つて行くのを、私は感じた。
「桜の花だつたか。」、私はさう思つた。
 ガジガジと、インク壺の中へペン先を突き込む音がする、慌しく「ノート」の頁をめくる音がする。
「……即ち、ヘラクライトスは常住の実体を根底より否定し、世界の真相は生成を以てなさるべきものとなしたる為に、クセノフアネースの思想を継いだエレア学派との激しい論争を醸すに至つたのであるが、飽くまでも万物流転の説に立脚して……」
 重い抑揚のあるH教授の声量が、快く私の鼓膜を打つた。同時に私の注意が教授の言葉に注がれようとした時、突然に、今迄蛙のやうにペつたりとテーブルにへばりついてゐた無数の頭が、ニヨキニヨキと浮動し始めた。教室全体が大きな吐息を一つ衝いて、さうして喧ましい咳払ひや、テーブルの下で蠢く下駄や靴の音が雑然として鳴り初めたので、未だH教授は口を動かせてゐるらしく見へたが、末席に腰掛けてゐる私の耳には、もうその声は伝はらなかつた。
 講義が、一区切り終つたところだつたのである。H教授は、これから、この時間の題目であるところのヘラクライトスの「ロゴス」に就いての講義に取り掛る前の一段落を済したところだつた。
 ハンカチーフで、顔を拭いてゐる者もあつた。聴き洩したところを傍の者に訊ねて、大急ぎで書き加へてゐる者もあつた。書きかけた「ノート」を黙読して、訂正を施したり、吸取紙でおさへてゐる者もあつた。
「流転のこう常の、こうといふ字はどう書くんだ。」
 私の前に居る男が、その隣りの者にそんなことを囁いてゐた。問はれた方の男は、持つてゐたペンを置くと懐中から鉛筆を取り出して「ノート」の上の方に「恒常」と書いた。
「うん、さうかさうか。」
「こんな字を知らんのか、馬鹿な野郎ぢやな。」
 さう云ひながら鉛筆を倒にして、ゴシゴシとその字を消してゐた。
 私の「ノート」は、拡げてはあつたが一行も汚れてゐなかつた。H教授の時間は、出来るだけ熱心に傍聴する筈だつたのだが――と、私は思つた。
 間もなく、教授は椅子から立ちあがつて、静かな咳私ひをした。さうすると、凡ての頭は一勢に机の上に打ち伏した。さうして、今や突撃の号令の掛るのを待つてゐる兵隊のやうに、ペン先を擬すと、部屋中の空気は、ひとつになつて息を殺してゐた。
 徐ろに、教授の微音が唇から洩れ初めると、待ち構へてゐた無数のペン先は、機織機械のやうにサラサラと活動し初めた。
 私は、背筋を延して、眼ばたきもしないで、ぼんやりとH教授の顔を眺めてゐた。――一脚に三四人座れる程のベンチであるが、前へ前へと詰め寄せて掛けてゐるので、一番終りの列には、私がたつた独り腰掛けてゐるばかりだつた。私の眼の前は、平坦な西瓜畑のやうなもので、ひとつの頭も…

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