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美智子と歯痛
みちことはいた
作品ID52917
著者牧野 信一
文字遣い新字旧仮名
底本 「牧野信一全集第一巻」 筑摩書房
2002(平成14)年8月20日
初出「少女 第一二四号(菜の花の巻 四月号)」時事新報社、1923(大正12)年3月8日
入力者宮元淳一
校正者門田裕志
公開 / 更新2011-06-12 / 2014-09-16
長さの目安約 7 ページ(500字/頁で計算)

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本文より

 美智子は、朝から齲歯が痛んで、とう/\朝御飯も喰べませんでした。眼に触れるものが悉く疳癪にさわりました。焦れツたくて/\堪りませんでした。家ぢうを大声あげて、出来るだけの速さで駆け回つても、まだ飽き足りないやうな気がします。鐘をグワン/\と打ち叩くやうに、或ひは歯のなかへ太い釘を叩き込むやうに――その響がビンビンと脳髄にしみ渡ります。
「あゝ。」と云つて美智子は、頬を押さへて太い溜息を洩らしました。頬が行火のやうに熱くほてつてゐました。たゞでさへ赤い頬が、それこそ林檎のやうに見事にふくれて、鏡で見た時自分ながら思はずフツと笑ひ出すところでしたが、笑ふどころではありません。直ぐに涙が眼に溢れてポタポタとこぼれて来ました。
 その癖、美智子はどうしても歯医者へ行く決心がつきません。美智子は、大へん臆病なのです。若し歯医者に行つてから、
「これはどうしても抜かなければ駄目です。」と云はれはしまいか? その時になつて、抜くのは痛いから嫌だと云へば、歯医者が笑ふだらうし、と云つてあのエンマ様の釘抜きのやうなもので、自分は痛くないのだから平気だといふやうに白々しい顔付で、ギウ/\引ツ張られたら、とても堪らない――。
 想つたゞけでも美智子は身震ひを禁じ得ませんでした。とは云へ、斯うやつてゐたら何時になつたら治ることやら……この痛さが二時間も続いたら、死んでしまふかも知れない。……だけど未だ歯痛みで死んだといふ人の話は聞いたこともない、一体誰でも歯が痛い時は、このやうに自分と同じやうな程度に痛いものか知ら? どうも他の人の痛さは斯んなに激しいとは思はれない。こんなに痛かつたら誰だつて泣く筈だ。此の間お母さんも齲歯が痛んだが、こんなに騒がなかつた。直ぐに歯医者へ駆けつけて直ぐに治つて帰つて来た。お母さんのはこれ程痛まなかつたに違ひない。
「あゝ、あゝ、あゝツ!」
 美智子は、とう/\鏡の前に打伏してしまひました。齲歯の虫が槍を打ち振つて、縦横無尽に口のなかで暴れてゐるやうです。さうしてその虫は凱歌を挙げてピヨン/\ダンスでもしてゐるやうです。
 戦争だ/\、未だ敗けない/\、何の齲歯の虫共ぐらゐ! この美智子の我慢強さを見よ! 暴れるなら幾らでも暴れて見るがよい! 敗けない/\。何といつても敗けない/\、あゝ、あゝ、あゝツ!
 そんな風に美智子は、無茶苦茶なことを胸に繰返しました。さう呟いて見ると、美智子はほんとうに悪魔とでも戦つてゐるやうな気がしました。ふと眼瞼の裏に勇ましい自分の姿が浮びました。頭上には白金の兜が朝日に輝いてゐます。身には鋼鉄の鎧がまとはれてゐます。高く差し延べた腕の先には月光のやうな剣がさんらんと映え渡つてゐます。猛火を浴び、砲煙をくゞり、馬に鞭ち、敵陣に進んで、軍旗をひるがへし――ジヤンヌは……ジヤンヌは……オルレアンの為に、
「ジヤンヌ、ジヤンヌ…

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