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地球儀
ちきゅうぎ
作品ID52919
著者牧野 信一
文字遣い新字旧仮名
底本 「牧野信一全集第一巻」 筑摩書房
2002(平成14)年8月20日
初出「文藝春秋 第一巻第七号(七月創作附録号)」文藝春秋社、1923(大正12)年7月1日
入力者宮元淳一
校正者門田裕志
公開 / 更新2011-05-17 / 2014-09-16
長さの目安約 9 ページ(500字/頁で計算)

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本文より

 祖父の十七年の法要があるから帰れ――といふ母からの手紙で、私は二タ月振り位ひで小田原の家へ帰つた。
「此頃はどうなの?」私は父のことを訊ねた。
「だん/\悪くなるばかり……」母は押入を片附けながら云つた。続けて、そんな気分を振り棄てるやうに、
「此方の家はほんとに狭くて斯んな時には全く困つて了ふ。第一何処に何が蔵つてあるんだか少しも解らない。」などと呟いてゐた。
「僕の事をおこつてゐますか?」
「カンカン!」母は面倒くさゝうに云つた。
「ふゝん!」
「これからもうお金なんて一文もやるんぢやないツて――私まで大変おこられた。」
「チエツ!」と私はセヽラ笑つた。屹度さうくるだらうとは思つてゐたものゝ、明らかに云はれて見るとドキツとした。セヽラ笑つて見たところで、私自身も母も、私自身の無能とカラ元気とを却つて醜く感ずるばかりだ。
「もうお父さんの事はあてにならないよ。あの年になつての事だもの……」
 これは父の放蕩を意味するのだつた。
「勝手にするがいゝさ。」私はおこつたやうな口調で呟くと、如何にも腹には確然とした或る自信があるやうな顔をした。斯んなものゝ云ひ方や斯んな態度は、私が此頃になつて初めて発見した母に対する一種のコケトリーだつた。だが私が用ふのは何時も此手段の他はなく、さうして其場限りで何の効もないので今ではもう母の方で、もう聞き飽きたよといふ顔をするのだつた。
「もう家もお終ひだ。私は覚悟してゐる。」と母は云つた。
 私は、母が云ふこの種の言葉は凡て母が感情に走つて云ふのだ、といふ風にばかり事更に解釈しようと努めた。
「だけど、まアどうにかなるでせうね。」私は何の意味もなく、たゞ自分を慰めるやうに易々と見せかけた。斯んな私の楽天的な態度にもすつかり母は愛想を尽してゐた。
 母は、ちよつと笑ひを浮べた儘黙つて、煙草盆を箱から出しては一つ一つ拭いてゐた。
 私も、話だけでも父の事に触れるのは厭になつた。
「明日は叔父さん達も皆な来るでせう。」
「皆な来ると云つて寄こした。」
 また父の事が口に出さうになつた。
「躑躅が好く咲いてる。」と私は云つた。
「お前でも花などに気がつく事があるの。」
「そりや、ありますとも。」と私は笑つた。母も笑つた。
「たゞでさへ狭いのにこれ邪魔で仕様がない。まさか棄てるわけにもゆかず。」母は押入の隅に嵩張つてゐる三尺程も高さのある地球儀の箱を指差した。――私は、ちよつと胸を衝かれた思ひがして、辛うじて苦笑ひを堪へた。さうして、
「邪魔らしいですね。」と慌てゝ云つた。何故なら私は此間その地球儀を思ひ出して一つの短篇を書きかけたからだつた。
 それは斯んな風に極めて感傷的に書き出した。――「祖父は泉水の隅の灯籠に灯を入れて来ると再び自分独りの黒く塗つた膳の前に胡坐を掻いて独酌を続けた。同じ部屋の丸い窓の下で、虫の穴が処々にあいてゐ…

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