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或る少女の死まで
あるしょうじょのしまで
作品ID53011
著者室生 犀星
文字遣い新字新仮名
底本 「或る少女の死まで 他二篇」 岩波文庫、岩波書店
1952(昭和27)年1月25日、2003(平成15)年11月14日改版
入力者辻朔実
校正者小林繁雄、門田裕志
公開 / 更新2013-01-12 / 2014-09-16
長さの目安約 88 ページ(500字/頁で計算)

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本文より

[#ページの左右中央]


大正八年十一月


[#改ページ]



 遠いところで私を呼ぶ声がするので、ふと眼をさますと、枕もとに宿のおかみが立っていた。それを見ながら私はまたうとうとと深い睡りに落ちかかった。
「是非会わなければならないと言って、そとで誰方か待っていらっしゃいます。おやすみになっていらっしゃいますと言っても、是非会わなければならないって――。」
 私はゆめうつつに聴いていたが、もしやと思ってはっとした。すると、ふしぎに頭がいちどに冷たくなった。
「どんな人です。」
「眼の鋭い、いやな人です。とにかくおあいになったらどう。いらっしゃいますと私はそう申しておいたのですから。」
「じゃ階下へいま行きます。」
 私は着物をきかえると、袂のところに泥がくっついたのが何時の間にか乾いたのであろう、ざらざらとこぼれた。
 階下へ降りると、玄関の格子戸のそとに、日に焼けた髯の長い男が立っていた。見ると同時に、額からだらだらと流れた血を思い出した。ふらふらして宿へかえったとき、宿の時計が午前二時を指していたことと、宿のものが皆寝込んでひっそりしていたことを思い出した。
「あなたですか。××さんと言われるのは。」
 いきなり田舎訛りのある言葉で言った。
「そうです。御用は。」
「私はこんなものです。」と一枚の名刺を出した。駒込署刑事何某とあった。
「すぐ同行してもらいたいのです。昨夜は遅くおかえりでしたろうな。」
 私はすぐに、
「二時にかえったのです。みな分っています。いま着換えしますから。」と言った。
 私は二階へあがると、泥のつかない着物を押入から取り出して着た。そして室の中を丁寧に見廻した。ガマ口の金を半分だけ机の曳出しに入れたが、こんどは辞書の中へ挿み込んだ。何故かこんなことをしなければならないような気がした。くしゃくしゃになった敷島の殻を反古籠に投げ込んで、ぬぎすてた着物も畳んだ。室が乱れていないのを見て、ほっと安心した。
 階下へ下りる、すぐ男とつれ立って街路へ出た。男は私とならんで歩いていたが、私はその顔を「見ないように」して歩いた。もう朝日が昇りはじめていた。商家の小僧らが表に水をまいたり、女中らが拭き掃除をしたりしていた。
 駒込林町の裏町のまがりくねった道を、私どもは黙って歩いた。男の紺の褪めた袖がちらちらと見えた。かれは私の右に添ってあるいていたからだ。この樹木の多い緑深い静かな町のとある垣根を越えた幾本かの日向葵の花が、しずかに朝日をあびながらゆらりと揺れているのが、特に山の手の朝らしく目に触れた。表の通りを白いむっちりした二の腕を露わして掃いている、若い細君らしいのが、凝然と私どものあとを見送ったりしていた。総てが静かに穏かな、晴れ亘った夏の朝の心に充ちていた。
 私は深酒したのと酷い疲れとで、あたまがふらふらしていたが、それとは…

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