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幼年時代
ようねんじだい
作品ID53013
著者室生 犀星
文字遣い新字新仮名
底本 「或る少女の死まで 他二篇」 岩波文庫、岩波書店
1952(昭和27)年1月25日、2003(平成15)年11月14日改版
入力者辻朔実
校正者小林繁雄、門田裕志
公開 / 更新2013-01-06 / 2014-09-16
長さの目安約 64 ページ(500字/頁で計算)

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本文より

[#ページの左右中央]


大正八年八月


[#改ページ]




 私はよく実家へ遊びに行った。実家はすぐ裏町の奥まった広い果樹園にとり囲まれた小ぢんまりした家であった。そこは玄関に槍が懸けてあって檜の重い四枚の戸があった。父はもう六十を越えていたが、母は眉の痕の青青した四十代の色の白い人であった。私は茶の間へ飛び込むと、
「なにか下さいな。」
 すぐお菓子をねだった。その茶の間は、いつも時計の音ばかりが聞えるほど静かで、非常にきれいに整頓された清潔な室であった。
「またお前来たのかえ。たった今帰ったばかりなのに。」
 茶棚から菓子皿を出して、客にでもするように、よくようかんや最中を盛って出してくれるのであった。母は、どういう時も菓子は器物に容れて、いつも特別な客にでもするように、お茶を添えてくれるのであった。茶棚や戸障子はみなよく拭かれていた。長火鉢を隔って坐って、母と向い合せに話すことが好きであった。
 母は小柄なきりっとした、色白なというより幾分蒼白い顔をしていた。私は貰われて行った家の母より、実の母がやはり厳しかったけれど、楽な気がして話されるのであった。
「お前おとなしくしておいでかね。そんな一日に二度も来ちゃいけませんよ。」
「だって来たけりゃ仕様がないじゃないの。」
「二日に一ぺん位におしよ。そうしないとあたしがお前を可愛がりすぎるように思われるし、お前のうちのお母さんにすまないじゃないかね。え。判って――。」
「そりゃ判っている。じゃ、一日に一ぺんずつ来ちゃ悪いの。」
「二日に一ぺんよ。」
 私は母とあうごとに、こんな話をしていたが、実家と一町と離れていなかったせいもあるが、約束はいつも破られるのであった。
 私は母の顔をみると、すぐに腹のなかで「これが本当のお母さん。自分を生んだおっかさん。」と心のそこでいつも呟いた。
「おっかさんは何故僕を今のおうちにやったの。」
「お約束したからさ。まだそんなことを判らなくてもいいの。」
 母はいつもこう答えていたが、私は、なぜ私を母があれほど愛しているに関わらず他家へやったのか、なぜ自分で育てなかったかということを疑っていた。それに私がたった一粒種だったことも私には母の心が解らなかった。
 父は、すぐ隣の間にいた。しかし昼間はたいがい畠に出ていた。私はよくそこへ行ってみた。
 父は、葡萄棚や梨畠の手入をいつも一人で、黙ってやっていた。なりの高い武士らしい人であった。
「坊やかい。ちょいと其処を持ってくれ。うん。そうだ。なかなかお前は悧巧だ。」と、父はときどき手伝わせた。
 畠は広かったが、林檎、柿、すもも等が、あちこちに作ってあった。ことに、杏の若木が多かった。若葉のかげによく熟れた美しい茜と紅とを交ぜたこの果実が、葉漏れの日光に柔らかくおいしそうに輝いていた。あまりに熟れすぎたのは、ひとりで温…

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