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老婆
ろうば
作品ID53140
著者小川 未明
文字遣い新字新仮名
底本 「文豪怪談傑作選 小川未明集 幽霊船」 ちくま文庫、筑摩書房
2008(平成20)年8月10日
初出「新天地」1908(明治41)年11月号
入力者門田裕志
校正者坂本真一
公開 / 更新2016-08-26 / 2016-06-10
長さの目安約 11 ページ(500字/頁で計算)

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本文より

 老婆は眠っているようだ。茫然とした顔付をして人が好そうに見る。一日中古ぼけた長火鉢の傍に坐って身動きもしない。古い煤けた家で夜になると鼠が天井張を駆け廻る音が騒々しい。障子の目は暗く紙は赤ちゃけているが、道具というものはこの長火鉢の外に何もなかった。私は終日外に出て家にいることが稀だから、何様ものを食べているか食事するのを見たことがない。私はただ二階の六畳を借りているばかりで、食事はすべて外で済して帰る。私が遅く帰る時分には、暗いランプの下に老婆は茫然と坐っている。それが朝出る時に見たと同じ方面に対して同じ様子で少しも変りがない。
 私が借りた二階の六畳の壁は青い紙で貼てあった。高窓が表向になって付いているばかりで、日も当らない、斯様汚らしい処を借るつもりでなかったが、値段が安くて、困っている当時のものだからつい入ることにしてしまった。私が間を見に来た時も、やはり婆さんはこうやって坐っていた。婆さん一人で住んでいるのかと聞いたら、やはりそうだと答えた。子も孫もないようだ。何して食って行くのか分らない。何もせずに坐っているばかりだ。私はただ間を借りたばかりで家では飯も食わないのだから話す機会もない。夜遅く帰えって朝早く務めに出てしまうばかりだ。それでも気味悪く思ったものだから、工場から帰える時に二尺ばかりの鉄棒を一本持って帰って戸棚の隅に隠して置いた。けれど婆さんは決して二階などへ上って来たことはない。私も別に下りて行て話しかけたこともない。偶々便所に行く時など下へ降ると婆さんは暗いランプの下で眤と彼方を向いて黙って坐っている。私も声をかけなければ婆さんも声をかけたことがない。その時ちらと横顔を覗くと茫然とした顔付で、何処か優しみのある、決して悪相を備えている人柄の悪い婆さんでないと思うので、日頃婆さんを気味悪く思ったり、悪く思っているのが気の毒になって、つい、
「お静な晩ですね。」と声をかけてしまう。すると婆さんは、きっと小さな咳をつづけさまに三つばかりやって、
「そうな……静かな晩だな。」と答える。その声がなんでも何処か、誰かに似ているなと思うが、未にその人のことが考え出されない。私は、その儘頭を傾げて便所に行き又二階へ上ってしまう。二階へ上ってしまってから、婆さんの声が誰かに似ている――何んでもその似ている人というのが自分と曾て直接に物を言ったことのある人らしく思われた――誰だったろうと考える。遂に思い出せなく、何気のせいだといって寝てしまう。下では何時頃婆さんが眠るものか、……それとも夜中ああやって、やはり坐り通して明すのかも知れないが、明る朝起きて下へ降りて見る頃には、きっといつもの様子で、同じ方角に向いて坐っているのである。しかし私は決して真夜中には下へ降りなかった――たとえ、人の好そうな婆さんでも何だか空怖しい気がして下る気になれない。婆さんの…

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