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越後の冬
えちごのふゆ |
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作品ID | 53143 |
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著者 | 小川 未明 Ⓦ |
文字遣い | 新字新仮名 |
底本 |
「文豪怪談傑作選 小川未明集 幽霊船」 ちくま文庫、筑摩書房 2008(平成20)年8月10日 |
初出 | 「新小説」1910(明治43)年1月号 |
入力者 | 門田裕志 |
校正者 | 坂本真一 |
公開 / 更新 | 2016-12-14 / 2016-11-21 |
長さの目安 | 約 15 ページ(500字/頁で計算) |
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小舎は山の上にあった。幾年か雨風に打たれたので、壁板には穴が明き、窓は壊れて、赤い壁の地膚が露われて、家根は灰色に板が朽ちて処々に莚を掩せて、その上に石が載せられてあった。この山の上は風が強い。雪解の頃になれば南の風が当るし、冬は沖から吹く風が時々小舎を持って行くように揺るのであった。だから家の周囲には四方から杉や、松や、榛の材で支えをして置く。その木すらもはや大分根元が腐って、少しの風でぐらつくのだ。
田や圃の収穫は済んだ。太吉の父親は病身の妻とその子を残して、上州へ出稼に出たのである。来年、この北国の山や野が若々しい緑で被われて、早咲の山桜の花が散って、遠野に白い烟が棚曳て、桃の花が咲く時分にならなければ帰って来ない。
太吉は炉辺に坐って、青竹を切って笛を造りながら、杉の葉や枯れた小枝を手折てはこれに火を焚付けて、湯を沸して町から母の帰るのを待っていた。長い月日の間、火を焚く烟で黒く煤けた天井の梁からは、煤が下っている。其処から吊された一筋の鉄棒には大きな黒い鉄瓶が懸っていた。ぱっと移りの易い杉葉に火が付いて、紅い炎は梁の煤にまで届こうとして、同時に太吉の顔を赤く色彩った。太吉は髪の縮れた、眼の大きな児であった。燃え上った火に薪を入れて、火のこれに燃え付くのを見守っている。紅い炎の舌は、この黒い鉄瓶を嘗めるように周囲にちらちらと纏わって、つるつると細い鉄棒を辿って、天井の梁にまで走ろうとしたけれど忽ち思い止まったように穏やかに燃え収った。
太吉は全く火の燃え付いたのを見て、又傍の竹を取り上げて小刀で孔を明け初めた。白い細な粉がばらばらと破れた膝の上に落ちる。暫らく太吉は熱心に気を笛の方に取られていたが、ふと手をやめて窓から外の空合を眺めた。ただ白く雲自身が凍っているように、眤として空は鈍く、物憂く、日の光りすらなかった。彼方の方は一面に暗くなって見える。暗くなっている空に浮き出ているように渓を隔てた松林の山は黒く見えて、僅かに見覚えがあるため、それが近くの山であるということが分るが、若し、全く見覚えがなかったなら、あの山は十里も彼方にあると言われたとて、それを信ぜずにはいられないような、遠い気持がする。太吉の眺めていた眼は自から塞がった。言い知れぬ悲しさが胸に湧いたからである。
「もうお母は帰らしゃる時分だ。どの辺へ来さっしゃったろう。」
と、独りで言いながら、考えて頭を傾げていたが、また何と思い返したか、笛を取上げた。
笛を見ると、彼はまた楽しみの心を禁ぜずにはいられない。この笛を吹くのだ。麓の村へ持て行ってこの笛を吹くのだ。雪が降って外へ遊びに出られなくても、この笛があれば、吹いて楽しく家で遊んでいられる。来年の春になって、小鳥が来る時分までもこの笛を大事にして取って置く。
「何時頃お父さあは帰って来さっしゃるだろう。その時分までもこの笛を…