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てん
著者小川 未明
文字遣い新字新仮名
底本 「文豪怪談傑作選 小川未明集 幽霊船」 ちくま文庫、筑摩書房
2008(平成20)年8月10日
初出「新天地」1909(明治42)年1月号
入力者門田裕志
校正者坂本真一
公開 / 更新2020-08-26 / 2020-07-29
長さの目安約 17 ページ(500字/頁で計算)
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本文より

 その頃この町の端に一つの教会堂があった。堂の周囲には紅い蔦が絡み付いていた。夕日が淋しき町を照す時に、等しくこの教会堂の紅い蔦の葉に鮮かに射して匂うたのである。堂は、西洋風の尖った高い屋根であって、白壁には大分罅が入っていた。
 日曜になっても余り信徒も沢山出入しなかった。
 その教会に計算翁と渾名された翁が棲んでいた。
 計算翁は牧師である。肩幅の広い、ガッシリした六十余歳の、常に鼠色の洋服を着て、半ば白くなった顎髭をもじゃもじゃと延して、両手でこれを披いている。会堂の両側は硝子窓である。外の扉を開けて入ると、幾つかの椅子が行儀よく並んでいる。その数は凡そ五十ばかりもある。正面に高く壇があって、其処に一脚のテーブルが置かれて、背後は半円形にたわんで喰い込んでいた。壁は凡て白く塗ってあった。其処で計算翁は日曜毎にあつまる町の人達に向って説教した。けれど毎週つづけて来るような信者は二人か三人位いで、大抵は遊び半分に来る人が多い。いつも人の数は二十に満たなかったけれどこの翁は、町の子供等に慕われていた。翁は冷静な頭を持っている。それで算術が上手であった。町の子供には毎夜六時から八時頃まで、特に日曜の時には午後の二時から六時までという風に算術の稽古を授けていた。それで信徒でなくても、町の子供等はこの教会に出入して翁をば算術の先生! 先生! と呼んでいた。処からしていつしかこの翁をば誰れ言うとなく計算翁と呼ぶに至った。
 翁は、半白の髪の延びた頭を抱えて、教壇のテーブルに向って、+、−、×の講義をやる。時にはその物憂そうな皺の寄った顔を上げて、眼の前のベンチに居並んだ子供に対って哲学や、神話の講義なども分り易いように物語ることがある。翁の半生を知る人は稀であった。旅の人である。この教会の牧師になって来てから、はや三年となった。それ以前に彼の妻たるべき人は死んだと見えて、此処に来た時は一人であった。この蔦の絡んだ教会堂に住んで、別室には家なしの労働者夫婦を同居させて居た。彼が教壇の上に立って、讃美歌を捧げる時のその声は、高い、太い声だけれど、また傷しい、悲みを帯んだ何処やら人に涙を催させるような処があった。――或人は、計算翁をば失恋の人だといった者もある。
 翁は決して、饒舌愛嬌のある人でない。極く沈んだ憂えを帯んだ額に八の字を寄せて、蓬のように蓬々とした半白の頭を両手でむしるように悶えることもあるかと思えば、また快活に語って恰かも神々しい天の光を認めたように浮き立つ場合がある。けれど何方かといえば無愛想な、構わぬ人であった。或時には冷たく見えたのは事実だ。
 日曜日になると説教がある。また午後からになると子供が数学を習いに来る。その時には無賃で置かれた家なしの女房は、後の扉を開けて出て来て、ストーブに薪を投て行く。家なしの夫は昼間は働に出て夜帰って来る。留守に女房…

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