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みずうみ
みずうみ
作品ID53181
著者室生 犀星
文字遣い新字新仮名
底本 「文豪怪談傑作選 室生犀星集 童子」 ちくま文庫、筑摩書房
2008(平成20)年9月10日
初出「詩と音楽」1923(大正12)年5月号
入力者門田裕志
校正者岡村和彦
公開 / 更新2013-10-18 / 2014-09-16
長さの目安約 36 ページ(500字/頁で計算)

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本文より

これは何となく人間の老境にかんじられるものを童話でも小説でも散文でもない姿であらわそうとしたものである。――



 舟のへさきに白い小鳥が一羽、静かに翼を憩めて止っている。――その影は冴えた百合花のように水の上にあるが、小波もない湖の底まで明るい透きとおった影の尾を曳いている。ときどき扇のような片羽を開いて嘴で羽虫でも[#挿絵]るのであろう、ふいに水の上の白い影が冴えて揺れた。
「お母様はどうなすったのでございましょう? あんなにお急ぎになったのに――わたしちょいと見てまいりましょうか。」
 纜を解きかけていた眠元朗は、渚にいる娘の方を顧った。
「すぐ来るだろうから、とにかく先きにお乗り。」
「纜をおときになっては厭でございます。舟が出てしまいますもの。」
「大丈夫だよ。湖から吹く風だからあと戻りしても沖へは吹かれはしない。」
 娘はすらりと舟の上に乗ったとき、尾の脚の迅い小鳥のかげがへさきから消えた。娘はきょうこそ彼の小鳥をつかまえようと、あんなに静かに舟腹にかくれるようにして乗ったのに、とうとう影を見失ってしまったと、くやしそうに舟の中に坐った。
「あの鳥が出ると、島の方がはっきり見えますのね。」
「あの鳥が一羽でも飛んでいたら、晴れるにきまっているんだよ。――それに晴れると白魚がたくさん群れて岸へあつまってくるのも不思議だ。」
 眠元朗は纜をといてから、舟を渚から少しずつ辷り出させた。引き波の隙間をねらって、舟はふうわりと白い鴨のように水の上を辷った。眠元朗は水馴棹を把った。たらたらする油ながしの雫は棹の裏を縫うて、静かな湖面に波紋をつくった。
「お母さまが入らっしゃらないのに、舟を出しちゃわるうございますわ。」
「出しはしないんだよ。」
「でも気になるんですもの。いつかのようにどんどん舟を出しておしまいなさるかも分らないんですもの。――わたしお父さまのなさることを後ではらはら思うことが沢山ありますの。何日のように出さないって言っていらしたくせに、とうとう島までおやりなすった――。」
 眠元朗はひとりで微笑いながら、棹を一とさしずつ辷らせた。
「そうあの日は島まで漕いでしまったが、――あとでお母さんが来られないことが分ったじゃないか。」
「ご遠慮なすったのよ、このごろはお母さまは舟に乗ることをお喜びにならないようですわ。わたしなんだかそんな気がしますの。」
「舟に乗ることを喜ばないって――お前にそれが分るのかね。」
「きょうも急ぐには入らっしゃらなかったことから考えても、そう思われますもの。」
 片手を水の上にひたせ、水をなぶっている繊指は、立っている父親の眼の下にあった。そろえた膝と小さな足――こまかいことを考えることに秀でた頭には、煙った髪がさらさらと肩まで垂れている。――眠元朗は棹を休めて娘と対い合って坐った。そして娘の顔をしずかに眺めた。

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