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寂しき魚
さびしきうお
著者室生 犀星
文字遣い新字新仮名
底本 「日本児童文学名作集(下)〔全2冊〕」 岩波文庫、岩波書店
1994(平成6)年3月16日
初出「赤い鳥」1920(大正9)年12月1日
入力者門田裕志
校正者きりんの手紙
公開 / 更新2019-08-01 / 2019-07-30
長さの目安約 10 ページ(500字/頁で計算)
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本文より

 それは古い沼で、川尻からつづいて蒼くどんよりとしていた上に、葦やよしがところどころに暗いまでに繁っていました。沼の水はときどき静かな波を風のまにまに湛えるほかは、しんとして、きみのわるいほど静まりきっていました。ただ、おりおり、岸の葦のしげみに川蝦が、その長い髭を水の上まで出して跳ねるばかりでした。
 その沼はいつごろからあったものか誰も知らない。涸れたこともなければ、減ったこともなく、ゆらゆらした水がいつも沼一杯にみなぎっていた。そのうえには、どんよりした鉛筆でぼかしたような曇った日ざしが、晩い秋頃らしく、重く、低い雲脚を垂れていたのです。
 そこには非常に古い一匹の魚が住んでいて、岸の方の葦のくらやみに、ぼんやりと浮きあがっていました。かれは水中の王者のように、その大きなからだを水面とすれすれにさせながら、いつも動かず震えもしないで、しずかに、ゆっくりと浮きあがっていたのです。その魚の藍ばんだ鱗には、のめのめな水苔が生えていて、どれだけ古く生きていたかが解るのでした。ただに鱗ばかりではなく、尾やひれまでに微塵な、水垢のようなこまかい藻のようなものが生え、それが顫えるということもなく、かれのからだ一面に震えていました。

 その魚はいつも何かしきりに考えているような、澄んだおとなしい泳ぎ方をしていた。たとえば、やや衰えはじめた青い目のひかりはいつの間にか薄らいで、ほとんど動くというようなことがなかった。いつも森のなかのように静かで、たえず空の方をながめては、また何か考えあぐんだように、間もなく沼の底ふかく眺め込むのでした。沼の底は、これもどんより曇って、幾枚もの硝子板を合したように、ある蔭はちぢみ、あるものは細長くなって見えました。竹や水や古い蓆の破れたのなどが、いちめんに濃い陰影をつくって、そこにも鯉や鮒や鯰のようなものまで、一つずつの魚巣に潜りこんで、れいの青い目でそとを眺めていました。けれども、かれらは、ひるのうちは滅多に水の上まで、空気のあるところまでは浮きあがってゆかなかった。そうするには、昼間はあまりに恐ろしいような気がしたからです。そのかわり夜になると、かれらは珍らしい水と空気との境目まで行って、月や星や風や空気や草木のささやきを知ることができるのでした。
 ひとしく、その蒼茫としたふしぎな空、ふしぎな蒼白い星のかずかず、そういうものは夜になると沼の上を覆うてくるのでした。月や星のかげは、水中の祝祭にでも現われたように、矢のような青白い光の線状を乱射してくるので、かれらはその光のあいだを泳ぎ廻りながら、ただ、水と空と夜との世界を遊びにふけるのでした。そこでは一切がかれらの仲間ばかりの世界で、何者もその美しい世界を乱してくるものがなかった。ただ、葦やよしの根が、さきの方に風をうけると、ふしぎに揺れて、水のなかで低い笛のような音を立てるのと、更…

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