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大人の眼と子供の眼
おとなのめとこどものめ
作品ID53186
著者水上 滝太郎
文字遣い新字新仮名
底本 「日本児童文学名作集(下)〔全2冊〕」 岩波文庫、岩波書店
1994(平成6)年3月16日
初出「改造」1923(大正12)年
入力者門田裕志
校正者noriko saito
公開 / 更新2020-03-23 / 2020-02-21
長さの目安約 10 ページ(500字/頁で計算)

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本文より

 私の子供の頃のことであるが、往来を通る見ず知らずの馬車の上の人や車の上の人におじぎをして、先方がうっかり礼をかえすと、手をうって喜ぶいたずらがあった。日清戦争の頃で、かつ陸海軍の軍人の沢山住んでいた土地柄、勲章をぶらさげて意気揚々として通る将校が多かった。向こうの方から、金モールを光らせて来る姿を見ると、車の前につかつかと進んで、帽子をとったりして得意がるのであった。子供のいたずらと知って、すまして通り過ぎるのもあり、笑って行くのもあるが、中にはおあいそに礼をかえすのも、またうっかり誘われて本気で手をこめかみに上げる人もあった。偉い大人が自分たちの相手になってくれた嬉しさと、偉い大人を相手にさせてやったという力量をほこる心持が、ちゃんぽんに心の中で躍った。たった一人、いくど繰返しても、うかとは手に乗らない苦手があった。その頃は少佐か中佐か、いくらよくても大佐だったろうが、後の海軍大将伯爵山本権兵衛である。毎日馬車に乗って、参謀の徽章を胸にかけて通った。不思議に子供も名前を知っていて、権兵衛が来た来たと、口々にしめしあわせながら、先を争って帽子をとって頭をさげた。しかし権兵衛さんは、頬髯に埋まった青白い顔に、陰性の凄い眼を光らせて睨みつけるばかりで、微笑を浮かべた事さえなかった。
「権兵衛が種蒔きゃ鴉がほじくる……」と子供はくやしがって、馬車のうしろから追いかけながら、はやし立てるのがおきまりだった。
 だが、自分がここに記そうとするのは、権兵衛さんの面影ではなく、同じくその往来の出来事で永く心に残って忘れられない白馬に乗った人の事なのである。それを、子供の眼が、いかに実際あるよりも美しく見るものかという例証のひとつにしたいのである。
 夏の日の事である。門前で遊んでいると、遠くから埃をあげて、まっしぐらに白馬をかけさせて来る人があった。西洋の狩猟の絵に見るような黒い鳥打帽子をかぶり、霜降の乗馬服に足ごしらえもすっかり本式なのが、鞭は手綱と共に手に持って、心持前屈みの姿勢を崩さず、振向きもせずに通り過ぎた。僅か一瞬間の事であったが、子供の眼には仰ぎ見る馬上の姿が、天かけるように聳えて高く見えたのである。
「いいなあ。」
 子供は一せいに感心して、見る見る町角に消えて行く白馬の行方を見送った。
「おいらも今にあんな馬に乗っかるんだ。」
 一番頓狂な乾物屋の子は、ありあわせの竹の棒にまたがって、そこいら中をかけずり廻った。
「馬鹿、てめえみたいな鼻ったらしが馬になんか乗れるもんかい。あの人なんて百円の月給取なんだぞ。」
 年かさの車屋の子は、はしゃぎ切って汗を流している奴を叱りつけた。
「百円? おっかねえ、おっかねえ。」
 乾物屋の子は目をまあるくして、おどけた顔を突出した。
「百円の月給だってさ。」
 周囲の者も口々に驚嘆の声を発した。驚くほかに何らの考えも…

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