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由布院行
ゆふいんこう
作品ID53209
著者中谷 宇吉郎
文字遣い新字新仮名
底本 「中谷宇吉郎随筆集」 岩波文庫、岩波書店
1988(昭和63)年9月16日
初出「社会及国家」1926(大正15)年5月20日
入力者門田裕志
校正者川山隆
公開 / 更新2013-02-15 / 2014-09-16
長さの目安約 14 ページ(500字/頁で計算)

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本文より

 去年の夏のことである。漸く学校は卒業したが、理研の方の建物が出来上っていなかったので、暫く物理教室の狭い実験室の一隅を借りて、仕事を続けていた時のことである。Y君やM君と一緒に、一室で三組も実験をしていて、窮屈な思いをしていたところへ、夏が来た。
 夏休みで学生がいなくなると実験の方はだれて来る。誰か一番先に来た男が、紅茶をわかしてビーカーに入れて、手製の硝子細工の管に水道の水を通して冷して置く。そして顔が揃うと、それを飲みながらとりとめもない話をする。まるで一日何もしないような日もある。毎日能率のあがらないのを知りながら、家にいたって仕様がないので出て来る。

 何だか頭が疲れて来たので、思い切って遠くへ出たいような気がして来て、それに前から卒業したら一度顔を見せて来なければならないと思っていた矢先だったもので、九州の伯父のところへ行くことにした。伯父といっても、故郷にいた時には同じ家にいたり、それに父が早く亡くなったので、自分の子供のように可愛がってくれていた伯父なので、思い出したら一日も早く会いたくなってしまった。
 伯父のいるのは由布院という所で、九州の別府温泉と同じ系統に属する辺鄙の温泉地である。温泉地といっても、別府から六里の峠を越した盆地の中で、九州でも「五箇荘か、由布院か」といってからかわれる位の山の中なのである。
 比較的空いた下ノ関行の急行の窓によりかかって、独り旅の気軽さを楽みながら、今頃は伯父が手紙を見てどんなに喜んでいるかなどと、ぼんやり考えて見た。高等学校の頃行った時には汽車の中の気づまりさに耐えかねて、瀬戸内海は汽船にしてしまったのであったが、今度はどうしたことか、大変伸び伸びした気持になって、誰とも口もきかず、眠ったような覚めたような気持でいたので、ちっとも疲れなかった。
 窓を明っ放して涼しい風を納れながら、先生から戴いて来た漱石研究を膝の上にひろげて、読むでもなく読まぬでもない気持で、時々眼をあげると、瀬戸内海だったりしたこともあった。
 夜遅く下関へ着いて、駅前の名もない宿へ泊る。すぐ前は、何とかホテルという大きい洋館だった。暗い電燈の下で、教室の連中へ葉書を書く。
……汽車の中はすいていてよかった。二十四時間仮眠して来たので、ちっとも草臥れなかった。東京からずっと一緒に来た新婚の夫婦らしいのが、初めは大分行儀がよかったが、だんだん草臥れて来て、口をあけて居眠りを始めたのが印象に残る位で、別に変ったこともなかった。今夜の宿は路に向って古い手すりのある旅籠だ。御茶菓子に EISEIGIYO という判を押した最中が出た。明日は朝早く海峡を渡る……
 帰って見たら、実験室の黒板にこの葉書が貼りつけてあった。そして所々赤インキで○がつけてあった。
 由布院へは中学の時に一度行ったことがある。その頃は伯父も別府にいて、夏休みに弟…

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