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『西遊記』の夢
『さいゆうき』のゆめ
作品ID53238
著者中谷 宇吉郎
文字遣い新字新仮名
底本 「中谷宇吉郎随筆集」 岩波文庫、岩波書店
1988(昭和63)年9月16日
初出「文藝春秋」1943(昭和18)年1月1日
入力者門田裕志
校正者川山隆
公開 / 更新2013-02-08 / 2014-09-16
長さの目安約 19 ページ(500字/頁で計算)

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本文より

 子供の頃読んだ本の中で、一番印象に残っているのは、『西遊記』である。
 もう三十年も前の話であり、特に私たちの育った北陸の片田舎には、その頃は子供のための本などというものはなかった。
 子供たちは、大人の読み古した講談本などを、親に叱られながら、こっそり読んでいた。その頃盛に出ていた小波氏の「世界お伽噺」のようなものも滅多に手に入らなかった。
 あの一冊十銭かの本は、たしか全部で百冊あったはずである。もう何回となく読みかえしたそのうちの一冊の末尾には、百冊の題目がずらりと並んでいた。その題目の一つ一つが少年の心には、あらゆる空想の種であった。これらの百冊の題目は、見開き二頁にぎっしり詰っていた。その二頁に、私たちは、いつまでもあかず見入っていた。気に入ったお馴染の題目のいくつかは、その紙面からずっと浮き出して見えた。そしてその活字の蔭に、古い城だの、碧い湖だのの姿が揺曳していた。
 そういう頃に、私は帝国文庫の『西遊記』を見つけた。私は町の小学校へはいるために、小学一年の時から町へあずけられていた。その家は旧士族の旧い家柄の家であった。そこには帝国文庫だの、それに類した本が十冊近くもあって、それがあこがれの的であった。
 背中に金の文字がはいっているあの厚い本は、中が小さい字で一杯に埋っていて、あれならばいくら読んでもおしまいにはならないように見えた。それに立派な絵も沢山はいっていた。
 漸く振仮名を頼りに読めるようになった時に、最初にとっついたのが『西遊記』であった。この頃になって、久しぶりで手にしてみると、劈頭から、南贍部洲とか、傲来国とかいうようなむつかしい字が一杯出て来る。こういう画の多い字が一杯並んで、字づらが薄黒く見えるような頁が、何か変化と神秘の国の扉のように、幼い心をそそった。
 面白さは無類であった。学校から帰ると、鞄を放り出して、古雑誌だの反故だののうず高くつまれた小さい机の上で『西遊記』に魂をうばわれて、夕暮の時をすごした。昼でも少し薄暗い四畳半の片隅には、夕闇がすぐ訪れた。その訪れにつれて、本を片手にだんだん窓際に移って行った。ふと顔をあげると、疲れた眼に、すぐ前の孟宗籔の緑が鮮かにうつった。
 仏教の寓意譚であるという『西遊記』が、これほど魅魔的に感ぜられたのは、雰囲気のせいもあった。その頃の加賀の旧い家には、まだ一向一揆時代の仏教の匂いが幾分残っていた。
 一番奥の六畳間が、仏壇の間になっていた。仏壇の間は昼でも薄暗かった。家に不相応な大きい仏壇は旧くすすけていて、燈明の灯がゆるくゆれると、いぶし金の内陣が、ゆらゆらと光って見えた。
 その家の老母は、仏壇の前にきちんと坐って、朝晩お経をあげていた。そして月に二、三回もお坊さんが来て、長いお経をあげた。小学生の私もその間は必ず老母の横にきちんと坐ってお経をきいていた。そういうこと…

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