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俳句は老人文学ではない
はいくはろうじんぶんがくではない
作品ID53538
著者室生 犀星
文字遣い新字旧仮名
底本 「日本の名随筆 別巻25 俳句」 作品社
1993(平成5)年3月25日
入力者門田裕志
校正者noriko saito
公開 / 更新2015-08-01 / 2015-07-02
長さの目安約 14 ページ(500字/頁で計算)

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本文より

 萩原朔太郎君がいつか「詩に別れた室生君へ」と題した僕に宛てた感想文のなかに、特に俳句が老年者の文学であつて恰も若い溌溂とした文学作品でないことを述べてあつたが、僕はこれを萩原君に答へずに置いたのは、この問題を釈くことが可成りに面倒であり簡単に言ひ尽せないからであつた。『俳句研究』からの註文で「俳句は老年者文学であるかないか」に就いて何か書いてくれとの事で、萩原君に答へることも出来るし、ゆつくりこの問題を考へて見ることにした。専門のことでないから間違つてゐたら笑つて読み捨てられたい。実際、俳壇の情勢を知らない私が今日の俳句を云々するのはどうかと思ふが、私は私の俳句道の経験から色々に考へて見たい。そしてこの文章もおもに萩原君あてに書いて見ることにしたいが、何度も萩原君と応酬したから同君もめんだうであらうと思ひ、僕も気が引けるのである。はじめ僕は「詩よ君と別れる」といふ一文を雑誌『文藝』に書いたが、萩原君はそれに応酬してつまり詩に別れた僕を送る辞をかいてくれたが、そのなかに分り兼ねる気持もあつたので更に僕は時事新聞で答へて置いたのである。却つて僕の一文よりも萩原君の何やら悲愴な文章が時の批評によつて掻き立てられ評判になつたが、それは詩と別れる私を送るかたはら、萩原は萩原らしい孤独の感銘を述べたものであつた。俳句文学については私は何もいはず、これは機会ある時に述べようと取つて置いた問題なのだ。だから毎度引合に出すのは萩原君には気の毒であるが、それだからと言つて萩原君の考へをそつくり肯定することも出来ないのである。彼は蕪村を認めるが芭蕉はあまり好かないと言ふのは、おそらく蕪村の闊達さを愛してゐるためであつて、芭蕉がともすると陰気くさく見えるのを好かないせゐであらう。蕪村と芭蕉の比較はここでしないが、大体に於て萩原君の「俳句は閑人や風流人の好む文学形式であつて同時に老成者の愛する文学」であることが殆ど根本的に考へ違つてゐることや、さういふ考へをもつことは俳句道のために鳥渡困る問題であるから、それを突き破つてなにが俳句が老成者の文学でないか、むしろ俳句ほど若々しい文学は他にないことを、私は述べたいのである。そして今日では音楽、絵画、彫刻などがその芸術的形式の高邁さにもかかはらず、凡ゆるラヂオや展覧会などで売買されてゐるのに、ひとり俳句作品だけが何故に理由なき孤高をつづけてゐて、物質的にも活動してゐないかを述べたいと思ふのである。それであるから時代と隔つた感覚を以て眺められてゐるのではないかと、言へるのだ。
 俳人も生活者でありその苦汁を舐めてゐるものであるに拘らず、あまりに温厚で控へ目なのはどうしたことであらう。他の奈何なる芸術作品に較べて見ても、最も形式が狭小であり作品の数もすくないのに、それの市価の決定されてゐないのはどうか。そしてさういふ習慣に引きずられて、誰も進…

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