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![]() たんけんじっき ちちゅうのひみつ |
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作品ID | 53674 |
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副題 | 05 深大寺の打石斧 05 じんだいじのだせきふ |
著者 | 江見 水蔭 Ⓦ |
文字遣い | 旧字旧仮名 |
底本 |
「探檢實記 地中の秘密」 博文館 1909(明治42)年5月25日 |
入力者 | 岡山勝美 |
校正者 | 岩下恵介 |
公開 / 更新 | 2018-09-17 / 2018-12-11 |
長さの目安 | 約 5 ページ(500字/頁で計算) |
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――一ヶ所で打石斧二百七十六――肩骨がメリ/\――這んな物を如何する――非常線――荏原郡縱斷――
余の陳列所の雨垂れ落に積重ねてある打製石斧は、數へては見ぬが、先づ謙遜して六七千箇は有ると云はう。精密に計算したら、或は一萬に近いかも知れぬ。
これは地の理を得て居るから、斯う打石斧を多く集められたのである。玉川沿岸には打石斧が多い。其處の何處へ行くのにも余の宅は近く且つ都合が好い。
それに余は蠻勇を以て任じて居るので、一度採集した物は、いくら途中で持重りがしても、それを捨てるといふ事を爲ぬ。肩の骨が折れても、持つて歸らねば承知せぬ。
人は打石斧かと云つて、奇形で無いのは踏付けた儘行くが。余は其打石斧だらうが、石槌だらうが、何んでも彼でも採集袋に入れねば承知出來ぬ。
故に、どんな不漁の時でも、打石斧を五六本持つて歸らぬ事は無い位である。
打石斧の一番多かつたのは、深大寺である。此所では先輩が、矢張打石斧を澤山採集した。
何もそれを目的といふ譯ではなかつたが、三十六年の六月二十三日であつた。望蜀生と共に陣屋横町を立出でた。
此日は荏原郡縱斷を試みるつもりであつた。
先づ權現臺、大塚、洗足小池、大池と過ぎ、祥雲寺山から奧澤へ出た。
此邊までは能く來るのだ。迂路つき廻るので既に三里以上歩いたに關らず、一向疲勞せぬ。此時既に打石斧十四五本を二人で拾つて居た。
それから下野毛、上野毛の兩遺跡を過ぎ、喜多見へ出た。
大分疲勞して來た。
路傍の草の上に腰を掛けて、握米飯を喫し、それから又テクリ出したが、却々暑い。
砧村の途中で磨石斧を拾ひ、それから小山の上り口で、破片を拾つたが、既う此所までに五里近く歩いたので、余は少しく參つて來た。
八王子街道を横切つて、いよ/\深大寺近く成つたのが、午後[#ルビの「ごゞ」は底本では「ごと」]の五時過ぎ。夕立でも來るか、空は一杯に曇つて來た。
深大寺の青渭神社[#ルビの「あをなみじんじや」は底本では「あをなみしんじや」]前の坂まで來ると、半磨製の小石斧を得た。
それから横手の坂の方へ掛つて見ると、有るわ/\、打石斧が、宛然、砂利を敷いた樣に散布して居る。
望蜀生と余とは、夢中に成つて、それを採集した。其數實に二百七十六本。それを四箇の大布呂敷に包み、二箇宛を分けて持つ事にした。
振分けにして、比較的輕さうなのを余が擔いで見ると、重いの重くないのと、お話にならぬ。肩骨はメリ/\響くのである。
蠻勇に於ては余よりも豪い望生も、少からずヘキエキして見えた。
それで一先づそれを、雜木林[#ルビの「ざふきばやし」は底本では「ざふきばなし」]の中へ擔ぎ込んで。
『如何だ、此邊へ隱して行かうか』
『然うですな、埋めて置いて、今度來て掘り出しますかな』
話して居る處へ、突然、林の中から、半外套を着た、草鞋脚半の…